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開拓の夜明けと発展  
 十勝開拓の早い例として、1883(明治16)年に移住した晩成社が有名です。明治30年代にはいると、各府県から団体あるいは単独で多くの人びとが十勝へやって来ました。移民たちは故郷と異なる環境に苦しみながらも、困難に立ち向かい開拓を進めました。そうした努力が実を結び、現在では商業的畑作農業を基盤とした独特の地域社会・文化が形づくられています。 
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 地図で見る十勝の変遷
   東西蝦夷山川地理取調図
■武四郎の地理取調図
 明治以前、北海道は蝦夷地
(えぞち)と呼ばれていました。江戸時代の終わりころ、ロシア船がしばしば蝦夷地周辺に姿を見せるようになりました。このため、幕府の蝦夷地への探検調査が活発化し、地図もしだいに正確なものが作られるようになりました。
 松浦武四郎は、1857(安政4)年から翌年にかけて行った蝦夷地に基づいて「東西蝦夷山川地理取調図」(北海道、南千島を描いた地図)を作成しました。十勝内陸部も地図に記しており、河川や湖沼などのようすが広く知られるようになりました。

北海道国郡全図
 明治新政府は、1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改め、十勝国を含む11国86郡に分割しました。
 そして、北海道改称後初めて作成された地図が「北海道国郡全図」です。この地図は南を上にして描かれています。また、北海道の地勢に詳しい松浦武四郎が、この地図の作成にも参画しています。


市町村の移り変わり
 明治2年、十勝には7郡51村が設定されました。この51村はしだいに統合整理され、大正9年までに1町12村となりました。大正10年から昭和27年までには、12村まで整理された村から新しい村が次々に独立し、1市24町村となりました。また、昭和23年には、現在の陸別町と足寄町の一部が釧路支庁から十勝支庁に編入されました。昭和40年には豊頃村が町となり、1市16町3村の時代が長く続きましたが、平成18年に幕別町と忠類村が合併し、現在は1市16町2村になっています。
 帯広は、明治35年に十勝で最初に町制を施行し、昭和8年に市となりました。
  
 開拓小屋と生活用具 
開拓小屋(模型)

自在鍋
開拓小屋
 府県から十勝へやって来た開拓移住者たちが、開拓地に到着して最初に取り組んだのが、とりあえず寝泊りができる仮小屋造りでした。この小屋は、手を合わせたような形から「拝み小屋」と呼ばれました。
 やがて開拓地に腰を落ち着けることが決まると、開拓小屋と呼ばれる住居を造りました。展示室の開拓小屋は(右写真)、実物の約1/5の大きさで、屋根にはヤチダモやカバなどの樹皮、壁にはカヤを使用しています。寒さがきびしい夜は炉の火をたやすことができませんでした。


生活道具
 十勝に移住した人びとは、故郷から道具を持ち込んだほか、足りないものは十勝川河口の大津などで購入したり、あるいは自作して生活の道具をととのえました。これらは生活を送るための最低限のものであり、開拓が進展するにつれて徐々に道具を増やしていきました。
 開拓時代の象徴的な道具として、開拓小屋の炉に常に吊り下げられていた「自在鍋」があります。自在鍋は、十勝開拓の先駆者、晩成社の依田勉三が詠んだ「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」の歌にも登場する、開拓者に温かな食事を提供するために用いられた道具でした。
 このほか、湯たんぽやその代用石、飯いずこなどさまざまな道具を展示しています。
 
 晩成社
常設展示室「晩成社」

晩成社移民団 

晩成社3幹部

生花苗牧場
 晩成社は、土地開墾、耕作、牧畜、造林、農業などを目的として結成された会社で、十勝内陸部に初めて集団移住をはたしました。開墾事業は困難を極めましたが、依田勉三らを中心に、十勝での農業や畜産のみならず、函館における牛肉販売、東京へのバターの出荷など、さまざまな事業をこころみました。

結成と移住
 
 十勝の開拓のさきがけになった晩成社は、依田勉三の北海道開拓の志をもとに、1882(明治15)年、静岡県那賀郡大沢村(現 松崎町)で、同地の豪農 依田家によって結成された会社です。同社の結成には、勉三が東京で勉学中に知り合った友人である渡辺勝と鈴木銃太郎も幹部として参加しました。
 会社結成後、開拓地選定のため勉三と銃太郎が渡道し、河西郡下帯広村(現 帯広市)を予定地と決めました。銃太郎はそのまま十勝にとどまり越冬し、移民団を待ちました。その間に勉三と勝は移民を募集し、翌明治16年5月、移民団一行、13戸27名が移住しました。故郷から十勝までひと月ほどかかる長い旅路でした。

事業の展開
 晩成社の事業は困難を極めました。当初の開墾計画は、政府から土地1万haの無償払い下げを受け、これを15年で開墾しようとするものでした。しかし、野火やバッタの大群の襲来、かんばつ、冷害など現実は想像を絶して厳しく、明治20年までに開墾した面積は20ha程度と、目標からはほど遠いありさまでした。
 こうしたなかで事業方針などをめぐって勉三、勝、銃太郎の三幹部の気持ちもしだいにばらばらになり、明治19年、勉三は単独で生花苗(現 大樹町晩成)に移って牧畜事業に着手しました。その後、銃太郎は明治20年、勝は明治26年に晩成社を離れ、それぞれ西士狩(現 芽室町)、然別方面(現 音更町)の開拓という独自の道を歩み始めました。

解 散
 晩成社は、豆、小麦、ビート、トウモロコシ、馬鈴薯などの栽培に加えて、牛肉、乳製品の製造、さらに木材工場を稼働させるなど、さまざまな事業に着手しました。そうしたなかで、当初の帯広農場のほか、現 帯広市川西地区などに350haの農地、大樹町晩成に1,700haの牧場を切り開きました。1920(大正9)年には水稲の豊作を祝い、途別水田で宴が催されました。
 しかし、これらの先進的な事業は会社の赤字を膨らませ、最終的には農地を手放す結果となりました。消費者の不在と交通網の不備が事業不振の理由として考えられます。
 事業不振に苦しみつつも、勉三は最期まで帯広にとどまり、1925(大正14)年に亡くなりました。そして移住から50年の1932(昭和7)年、晩成社はパイオニアの足跡を残して解散しました。
コラム ランダーと渡辺勝・カネ夫妻

 1890(明治23)年、一人のイギリス人青年が帯広を訪れました。画家であり、世界中を旅していたA.Hサヴェッジ・ランダーです。ランダーは勝・カネ夫妻と出会い、その宅に3日間ほど滞在しました。開拓のただなかにある帯広において、英語で会話する勝夫妻に大変な驚きを見せています。こののちランダーは勝宅を描いた油絵を夫妻に贈りました(右写真)。この絵は、1983年に帯広市文化財に指定されました。
 
 殖民地開放・大農場
殖民地区画測量隊
 
殖民地開放と移民の流入
殖民地開放 
 明治政府は、資源開発やロシアの極東進出への対応のために、北海道の開拓を急務ととらえました。
 北海道庁は1886(明治19)年に発足し、道内の主要な原野を対象に、農業に適した土地を調査する殖民地選定を行い、移民の増加に備えました。明治21〜22年に十勝で行われた調査で、43原野、29万haが選定され、十勝地方は石狩地方と並ぶ有望な開拓地として注目されました。
 続いて、明治25年から選定された殖民地の区画割りが行われました。これにより、1戸ごとに5haの農地が設置され、これの6戸分である300間(約540m)四方を一区画とし、縦横に道路を敷くほか排水設備、防風林などを設け、500戸分の中央に市街地を設定したものでした。
 調査・区割りした土地を民間に払い下げることを殖民地開放といいます。移民の受け入れが整った十勝は、明治29(1896)年、下帯広村に北海道庁殖民課十勝出張所を設け殖民地を開放しました。翌30年には、新しい土地処分制度である「北海道国有未開地処分法」ができ、それまで開墾成功後に有償で払い下げることになっていた土地が無償になりました。
 このような土地政策の進展により、明治30年代以降、十勝への移住は本格化していくことになりました。

十勝の移民
 十勝はロシアに対する防備の必要性が低い地域であるため、屯田兵が設置されませんでした。そのため開拓には、出身地域ごとに数十名程度で移住してきた民間団体が大きな役割を果たしました。富山県から幕別に移住した五位団体、岐阜県から上士幌に移住した武儀団体など多くの団体が十勝に根をおろしました。団体移民はまとまりが強く、各地で開拓を成功させました。
 十勝の移民を出身地別にみると、富山県がもっと多く、岐阜県がこれに続きます。このほか東北・北陸地方の県に加え、徳島県・香川県からの移住者が多くみられました。

大農場
 1898(明治30)年制定の「北海道国有未開地処分法」は、一般移民の増加を促すとともに、民間資本の導入をはかるため個人資本家や会社に大面積の土地を払い下げる道を開くものでした。
 これにより、十勝にも各地に大農場が誕生しました。これらの農場では府県から小作人を募集し、農地を貸し与えて耕作させました。大農場は地域の開拓を促進する大きな力となりましたが、一方で地主へ支払う小作料などを巡って、地主と小作人の間で対立も生まれました。
 自作農の創設を目指して
豊頃町牛首別(明治40年頃)

興復社農場事務所

関農場
 十勝に大地主が生まれるなか、小作人を自ら土地を持つ自作農に育成することを目標に掲げ、開拓に挑んだ人物・結社も存在しました。二宮尊親の興復社と関寛の積善社がその代表例です。

二宮尊親
 二宮尊親は、二宮尊徳の孫です。1855(安政2)年、現在の栃木県で生まれました。興復社は、尊徳の報徳思想を実践する開拓結社です。1877(明治10)年、福島県中村(現 相馬市)で発足し、明治23年、副社長だった尊親が社長に就任しました。
 尊親は、社長就任のころから事業地を北海道とする構想を練り始め、明治29(1896)年、現地調査の結果、牛首別原野(現 豊頃町二宮)を選びました。明治30年、山林を含む1,500haの払い下げを出願し、自ら最初の移民を率いて移住しました。その後、順調に移住者が増加し、明治41年までに、ほぼ計画通りの約850haを開墾しました。
 興復社の目的は、移住した小作人を土地を持つ自作農へと育てることでした。この目的のために、尊親を中心とする勉強会や互いに助け合う独特の組織、制度などが存在しました。また、移住者を福島県相馬地方の同郷人から厳選したことも計画を順調に達成できた要因でした。
 尊親は、明治40年、管理者に現地を任せて福島県中村へ帰りますが、この間、十勝七郡農会の初代会長など農業、教育の要職につき大きな足跡を残しました。

関 寛
 関寛(寛斎)は、1830(天保元)年、千葉県で生まれました。漢方医学を修めた後、長崎で西洋医学を学び、徳島藩の藩医となりました。幕末の戊辰戦争では官軍の医師として従軍し、明治になって徳島病院長や山梨病院長などを歴任、1873(明治6)年、徳島で開業医となりました。
 明治35(1902)年、72歳で北海道開拓を志し、札幌農学校を卒業した四男の又一とともに陸別の斗満原野の開拓に取り組みました。また、牛首別原野の興復社農場を視察し、二宮尊親の影響を受け、自作農育成を目的とする積善社を設立しました。1912(大正元)年、陸別で没しましたが、死後、4,000haを超える広大な農場のほとんどが小作人らに開放され、その遺志が達成されました。
 
 十勝監獄  
十勝監獄庁舎

十勝公会堂

現在の石油庫
十勝監獄 
 十勝監獄の開庁は、帯広市街地の発展を促す重要な契機となりました。
 1895(明治28)年、下帯広村(現 帯広市)に北海道集治監十勝分監(明治36年に十勝監獄となる)が現在の緑ヶ丘公園敷地内に開庁しました。明治政府が北海道に監獄を設置したおもな目的は、囚人を未開地に収容し本州から遠ざけるため、囚人の労働力を開拓に利用するためでした。
 開庁に先だって、1893(明治26)年、釧路分監の囚人により大津-帯広-芽室を結ぶ道路(通称「大津街道」)が開かれました。また、同年、現在の帯広柏葉高校近くに釧路分監帯広外役所が設置されました。外役所に収容された囚人は帯広分監を建設するため、上士幌の糠平付近で森林を伐採、木材を音更川で流し、木軌道で緑ヶ丘へ運びました。

足 跡
 
十勝監獄が開庁したことにより、商人をはじめとして人びとの活動が活発化しました。また、囚人たちによる道路や諸施設の建設が、人びとの生活を支えることになり、帯広市街地の基礎が形成されました。
 十勝分監が開庁したころの下帯広村の人口はわずかに300人ほどでした。そこに囚人1,300人と職員約200人の分監ができたため、これを目当てに商人なども集まり、村は急速に発展しました。監獄では、日用雑貨など諸物品を製造し、商人に払い下げました。
 道路については、先に触れた「大津街道」のほか、大通り基点から11丁目までの工事を担いました。また、十勝公会堂をはじめ鉄道や学校の建設も行いました。
 明治末までに切り開かれた監獄用地は約3,600ヘクタールに達し、450haは農場となりました。この広大な土地は、のちに払い下げられ、帯広市街地を拡大する要因となりました。

石油庫
 
現在の帯広市緑ヶ丘公園は、十勝監獄の跡地に造成されています。公園内には、監獄の照明用の灯油を保管した「石油庫」(1900年建造)が現存しており、帯広市の指定文化財として保存されています。このほか、レンガや瓦を焼いた「のぼり窯」の跡があり、監獄時代の名残を今に伝えています。