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十勝のくらし  
 明治以降、本州から移住してきた開拓者たちは、新しい環境に立ち向かいながら、農地を広げ、町を発展させてきました。
 このコーナーでは、開拓期から昭和40年代ころまでの生活用具や街並みの移り変わりなどを紹介しています。
 
 
時計 / 蓄音機 / ラジオ / テレビ / ストーブ / ワラ細工 / 越中造り / 衣服 / 子どもと女性 
■時計
 
帯広の時計店の第1号は、1906(明治39)年に久富留吉が大通り6丁目に開業した久富時計店です。このころの時計は柱時計や置時計で、大正時代になると懐中時計が普及しました。
 腕時計は昭和に入って普及し、昭和30年代には自動巻きが登場し、50年代からはクォーツ時計が主流となりました。

■蓄音機
 
わが国で蓄音機やレコードが生産されるようになったのは、1910(明治43)年ころからです。帯広に初めて蓄音機が登場したのは明治の末ころで、料理屋を経営していた田辺孝三が、見せ物として聴かせたと伝えられています。
 初期の蓄音機は、ゼンマイを巻いてレコードを回し、大きなラッパから音を出すものでした。その後、ラッパのない「無ラッパ型」に変わり、昭和20年代になると電気モーターでレコードを回す「電蓄」に変わりました。30年代には左右のスピーカーで音を立体的に聴かせるステレオが登場し、レコードも片面3分から約30分へと長時間の録音ができるようになりました。そして、50年代後半にはCDが登場しました。
 
 
(大正初期)
 
ラッパ式蓄音機
(大正初期)
■ラジオ
 
わが国でラジオ放送が開始されたのは1925(大正14)年です。ラジオによって人びとは、より早く、より多くの情報を得ることができるようになりました。十勝で本格的に放送を受信できるようになったのは、1936(昭和11)年にNHK帯広放送局が開局されてからで、その後、急速に普及しました。
 
■テレビ
 
1956(昭和31)年、NHKが札幌でテレビ放送を開始し、十勝でも視聴できるようになりましたが、画面は雪が降っているような見づらい状態でした。昭和34年にNHKが音更町十勝ヶ丘に送信アンテナを設置し、十勝での放送を開始しました。昭和38年からSTVとHBCが見られるようになりました。
 1972(昭和47)年からはカラー放送を受信できるようになりました。
 
ラジオ
(昭和10年製)
 
(昭和30年代製)
■ストーブ
 
大正時代に入ると、それまで学校などの公共建築物で行われていた洋風化が一般の住宅にも広がり、これに合わせた暖房器具が登場しました。
 その後、住居の寒さや雪に対する工夫が急速に進み、昭和初期にはガラス窓の二重化、外壁の下見板張り仕上げ(板の一部を重ねて貼ったもの)などのほか、トタン葺きの屋根が多く見られるようになりました。また、暖房も薪ストーブから石炭ストーブへと変化しました。
 そして、昭和30年代なると北海道が本格的な寒冷地向き住宅として推進したブロック造りの三角屋根住宅が普及しました。また、昭和40年代から、暖房も石炭から石油ストーブへと変化していきました。
 

 ストーブの移り変わり
■ワラ細工
 
農家の冬の間の仕事として、稲や麦の茎を干したものを材料に「ワラ細工」が行われ、履物をはじめ色々なものが作られました。
 開拓期の北海道でとくに必要だったのは、「ボッコ」と呼ばれた深藁靴や草履に覆いのついた「爪子」でした。
 ワラが身近になかった開拓初期には、米俵などをほぐして材料にしました。大正の終わりころには、商店でも買えるようになり、昭和に入るとゴム長靴が登場し、農家で作られることはなくなりました。

■越中造り
 
開拓初期の困難を乗り切った人びとは、生活が安定してくると、土台のある本格的な住居を建てるようになりました。出身地域から大工職人を呼び寄せ、故郷と同じスタイルの住居も建てられました。
 展示室の復元家屋もそのひとつです。これは、富山県からの移住者が多い、現在の帯広市西帯広に建てられた「越中造り」と呼ばれる住居です。富山県西砺波郡大滝村(現 福岡町)から伏古村に移住した倉野竹次郎が、太いヤチダモを柱や梁の材料に、3年の年月を費やし、1904(明治37)年に完成させました。
 家屋の入口のスイッチをひねると、オイルランプや裸電球、蛍光灯の明かりを体験することができます。
 

ワラ細工

 展示室に復元した越中造り
■衣 服
 
開拓期に府県から北海道に移住した人びとにとって、木綿の和服着物で冬を過ごすことは厳しく、重ね着をしたり、布の間に綿を入れた「綿入れ」の着物を作るなど、防寒のための工夫をしなければなりませんでした。
 明治後半になると、軍隊の衣料素材として使われていた羊毛布が一般にも普及し、男性のマントや女性の角巻きに使われました。
 大正の後半から昭和にかけて、背広をはじめとして日本人の衣服が洋服へと大きく変化しました。またこのころ、防寒素材として羊毛布を使った厚地のオーバーコートが普及しました。
 昭和30年代になると、ナイロンなど化学繊維が普及して、衣服は大きく変化しました。とくに防寒衣料は、軽くて暖かく、運動性に優れたものとなり、北海道の冬の生活を快適にしました。
 
 
■子どもと女性
 
1881(明治14)年、十勝で初となる小学校が広尾と大津に開設されました。明治29年には帯広尋常小学校が開設、30年代に入ると、簡易教育所を含め多くの小学校が設置されました。しかし、生活物資が不足し、また農作業まどの手伝いや通学の困難さから学校へ行くことができない児童もめずらしくありませんでした。
 子どもの遊びは、お手玉やおはじき、メンコ、ビー玉など多彩でしたが、開拓地ではウサギ狩りなど自然を相手にした遊びもありました。
 冬の代表的なスポーツとなったスキーやスケートは明治の後期に登場し、冬の遊びとして定着しました。スケートは、はじめは固い雪の上を滑るもので、下駄に竹や鉄の刃を付けたものでした。その後、刃の部分を靴に付けて滑る「雪スケート」が登場し、現代のようなスケート靴は昭和30年ころから一般化しました。
 家事や育児をともなう女性にとって、開拓生活は一段と厳しいものでした。縫い物などの夜間仕事は、囲炉裏の火やランプの明かりの下で行いました。農作業がない冬の間も、豆選りや足袋に刺し子をして地下足袋を作るなどたくさんの仕事がありました。
 昭和30年ころからの農業の機械化と電化製品の普及で、農村の女性の生活はしだいに改善されていきました。

 角巻き
 
綿入れの着物
 
下駄スケート

雪スケート