INDEX 開拓の夜明けと発展  十勝の自然  十勝のくらし
十勝農業王国の確立  十勝平野のおいたち  十勝の先史時代   TOPページ
十勝のアイヌ文化  
 12~13世紀ころを境に、擦文文化からアイヌ文化へと時の流れのなかで文化は移り変わっていきました。この文化を担ってきた先住民族のアイヌの人たちは、厳しくも豊かな自然のなかで、狩猟や漁労、植物採集、それに交易を中心とした生活を営んできました。
 十勝では、十勝川をはじめとする河川に沿って各地にアイヌの人たちの生活の中心となるコタン(集落)が形成され、独自の文化を築き上げてきました。
 このように自然と共に生きてきたアイヌの人たちは、和人による開拓が進み、時代が移り変わっていくなかで、しだいに日本の社会に組み込まれ、今では昔どおりの伝統的な生活を続ける人はいなくなりました。
 しかし、現在、民族としての伝統と誇りを受け継ぎ、文化を未来に伝承していくさまざまな取り組みが、多くの人たちの手によって各地で盛んに行われています。
  山猟・川漁・海漁 / 植物採集・料理のメニュー / 衣服・住居 / カムイ・イオマンテ / 生から死まで 歌と踊り / 近代以降のアイヌ文化   
 山猟・川漁・海漁   コラム アマッポ(仕掛け弓)

 シカやクマ、キツネなどをとるために用いられたわなの一種。本体から伸びた糸を獲物が引っ掛けると、矢が飛び出す仕掛けになっています。動物の通り道に仕掛けますが、危険なために、その近くには目印がつけられていました。
 
アマッポ
■山猟
 山猟は食料や毛皮を得るために行われました。捕獲した動物は、エゾシカ、ヒグマ、エゾユキウサギ、キタキツネ、エゾタヌキ、クロテンなどの動物や、エゾライチョウやカモ類といった鳥類などです。時期は冬毛の良質な毛皮が得られることや、獲物を見つけやすいなどの理由から、おもに秋から春にかけての冬期間に行っていました。
 捕獲には、おもに弓矢が使われました。この矢にはトリカブトからとった猛毒が塗られていました。このほか、シカやキツネをとる仕掛け弓やテンをとる箱わな、ウサギをとる輪の形をしたものなど、いろいろなわなも使われました。
 
■川漁・海漁
 十勝川や歴舟川などの河川やその支流に沿って多くのコタン(集落)があった十勝地方では、川漁が盛んに行われ、季節ごとにサケ・マス・イトウ・ウグイ、それにチョウザメなど多くの魚を捕っていました。十勝川などの大きな川では丸木舟による網漁が行われたり、支流の小川では皮をせき止めてかごを仕掛ける漁などが行われました。また、マレㇰという突き鉤
(かぎ)を用いた漁も各地で行われていました。
 こうして捕獲した魚は、新鮮なうちに料理するほか、いろりの上にある炉棚につるし、くん製にして保存食として貯えられました。
 

マレㇰ 
■イタオマチ
 イタオマチ
(板綴り舟)は名前のとおり、丸木舟の側面に板をつづって張り付けた舟で、おもに外洋で用いられ、メカジキや海獣などの海漁や交易品の運搬に使用されました。
 展示の舟は、村上貞助がまとめた『蝦夷嶋図説(蝦夷生計図説)』に描かれたイタオマチ
の絵などをもとに復元した縮小スケールの模型です。
 この絵には舟の形態や製作過程が細かく描かれており、説明には、広尾あたりを境に東と西で舟の形態に変化がみられることが記述されています。このことから、十勝の海岸線でもイタオマチ
が利用されていたことがわかります。
 
展示室のイタオマチ
 コラム  外来品

 かつてアイヌの人たちは、本州などとの交易や漁場労働の対価として、鍋や小刀などの鉄製品や漆器類をはじめ、木綿や絹製品、玉飾りや耳飾りといった装飾品など多くの外来品を入手していました。たとえば、展示している漆器類の中に「シントコ」というものがありますが、これはもともと本州などで作られた「行器(ほかい)」という容器で、本来は食べ物などを運ぶために使われていたものです。
 アイヌの人たちは、この中に穀物を入れたり、儀式のときにには酒を入れたりして使っていました。また、それ自体を大切にしていて、その所有数が多いほど繁栄した家であることを示すものでもありました。
 シントコ
 植物採集・料理のメニュー 
■植物採集
 アイヌの人たちは、食用や薬用になる植物を数百種類も知っていたといわれ、春から秋にかけて、さまざまな植物を採集していました。
 十勝では春から夏にかけて、ギョウジャニンニク、フキノトウ、ニリンソウ、フキ、エゾエンゴサク、オオウバユリなどたくさんの植物を採集していました。とくに、オオウバユリの鱗茎からは保存食に適したでんぷんがたくさん取れるので、大量に採集しました。
 夏から秋にかけては、ヤマブドウ、クルミ、キハダ、ヒシ、ヤブマメなどの果実やコウライテンナンショウなどの根、タモギタケやマイタケといったキノコなどを採集していました。
 こうして採集した植物は、すぐに利用されて食卓に並ぶほか、その多くは冬のための保存食、あるいは薬として、天日で干してから家や食料庫に保存されました。

 
コラム  
 オオウバユリからの
   デンプン採取


①鱗茎をはがしてきれいに洗う

②ついてつぶし、1週間くらい発酵させる

③ザルでこして繊維質とデンプンを分離

④繊維質はドーナツ状にして乾燥

⑤デンプンを木綿袋でこして、一番粉と二番粉に分離

⑥木綿袋の中は二番粉、しぼり出されたものは一番粉になる






■料理のメニュー
 日常の料理の中で、もっとも基本だったのがオハウとサヨです。オハウは魚や鳥獣肉、骨などと季節の山菜を鍋に入れ、塩で薄く味付けして、動物や魚の油を入れた鍋ものです。サヨはヒエ、アワ、イナキビなどの穀物にギョウジャニンニクの茎葉やオオウバユリのでんぷん、イクラなどを入れたおかゆです。
 このほか、新鮮なサケの頭をきざんで山菜や白子と混ぜたチタタㇷ゚
、冬期間外に出しておいたイモをつぶして団子にし、焼いて油や筋子をつけて食べるムニニモシトなど季節の素材を活かした料理もたくさん作られました。

オハゥ
(魚の鍋もの)

サヨ
(おかゆ)
 
チタタㇷ゚
(魚のたたき料理)

ムニニモシト
(しばれいも団子)
 衣服・住居   
■衣 服
 かつて十勝のアイヌの人たちは、毛皮、木の内皮繊維で織った布、交易で手に入れた木綿などで着物を作っていました。
 獣皮衣はエゾシカなどの毛皮を利用したもので、冬期間の防寒用でした。樹皮衣はアットゥㇱといい、オヒョウやシナノキの繊維で作られました。また、木綿衣には刺繍だけを施した着物と、黒や紺の細い布を切り伏せし、その上に刺しゅうを施したものがありました。
 こうした着物のうち、文様が付いているものは儀式用で、あまり付いていないものは普段着としていたようです。


■住 居
 アイヌの人たちの住居は「チセ」と呼ばれ、骨組みや屋根・壁など家を構成するすべての材料は、身近な自然のなかから得ていました。十勝では、骨組みはハシドイやヤチダモ、壁や屋根の材料にはおもにヨシが用いられていました。
 チセの内部は四角形の一間で、中央に炉がありました。窓は入口から入って正面に1ヵ所と右側(または左側)に1~2ヵ所あり、とくに正面の窓はカムイ(神)が出入りする窓といわれ、とても大切にされました。
 こうしたチセの大きさは、十勝では大きなものでも幅6m、奥行9mぐらいだったといわれています。

 刺しゅう入りの
木綿衣服

 普段着用の
アットゥㇱ
 
 常設展示室の「チセ」の模型
コラム  チェㇷ゚ケㇼ (サケ皮製の靴)

 サケはアイヌ語でカムイチェㇷ゚(神の魚)と呼ばれ、アイヌの人たちのとって重要な食料でした。また、サケの皮を使って靴を作っていました。この靴のことをアイヌ語でチェㇷ゚ケㇼ(「魚の靴」の意味)といいます。
 はくときには、植物の繊維で作った靴下をはき、さらに乾燥させた特定の草を足のまわりに入れていました。このチェㇷ゚ケㇼは、軽くてとても暖かいものだったようです。
 
 チェㇷ゚ケㇼ
 カムイ(神)・イオマンテ(クマの霊送り)  
カムイ(神)
 北国の厳しくも豊かな自然のなかで暮らしていたアイヌの人たちは、動植物や山、川、火、雷など自然界に存在するものを神として考えていました。この神のことをアイヌ語でカムイと言い、安定した生活を営めるのも、災いにあうのもすべてはカムイとの関係によるものと考えられていました。
 たとえば、火はアペフチカムイといい、いつも人間を身近で見守るカムイとして儀式のなかでも重要な役割を果たしました。シマフクロウはコタンコㇿカムイと呼ばれ、人間の村を守ってくれるカムイ、カシワの大木はコㇺニシㇼコㇿカムイと呼ばれ、その地域の大地を司るカムイでした。また、十勝川や日高山脈のポロシリ岳、それにクマネシリの山々なども、みなカムイとして考えられていました。

イオマンテ(クマの霊送り)
 人間界のクマは、毛皮と肉をお土産に、人間の世界に下りてきたクマのカムイが化身した姿でした。人びとは人間界に遊びに訪れたこのカムイをもてなし、その後、肉体と魂をわけて、本体である魂をたくさんのお土産とともに再びカムイの世界へ送り返す儀式を行いました。
 イオマンテとは、山で捕まえたクマの子どもを村へ連れて帰って大切に育て、1年ほどたったらカムイの世界にいる親元へその魂を帰す儀式です。そして、大切に送り帰されたクマのカムイは、再び毛皮と肉をお土産に人間界を訪れると考えられていました。
 こうした霊送り儀礼は、自然の恵みに感謝し、その恵みが再びもたらされるようにと願う儀式だったのです。
 

コタンコㇿカムイ

イオマンテの図
コラム  ヌサ(祭壇)

 ヌサはその地方、あるいは個人が信仰するカムイを祭っている祭壇です。作られる場所は、家の神窓がある方向の外で、帯広伏古、芽室、幕別では西側、音更、本別では北側にありました。
 常設展示室のヌサ(右写真)は、帯広伏古出身の伝承者の方に作っていただいたもので、脚のついた高いイナウが捧げられている神は、左からポロシㇼカムイ(ポロシリ岳の神)、コㇺニシㇼコㇿカムイ(大地を司るカシワの神)、ニヤㇱコㇿカムイ(原野の神)、コタンコㇿカムイ(シマフクロウの神)、チㇷ゚タチカㇷ゚カムイ(クマゲラの神)、シペッカムイ(十勝川の神)となっています。
 
 生から死まで  歌と踊り  
■生から死まで 
 アイヌの人たちは、子どもが生まれるとすぐには名前を付けず、ある程度成長して性格がはっきりしてきたら、その子どもに適した名前を付けました。子どもたちは遊びのなかで大人になってから必要な技術を習得していきました。
 青年へと成長するなかで、男子は儀式に参加し、また、狩猟の手伝いをしながら技術をおぼえ、女子は着物の製作や刺しゅうの技術を身につけるなど、大人になるための準備がはじまりました。こうして17歳前後になると一人前の大人として認められ、結婚も許されるようになりました。
 人間がその一生を終えると、魂はあの世へ行き、この世と同じような生活をすると考えられていました。このため、あの世へ行っても困らないようにさまざまな生活用具とともに葬りました。

歌と踊り
 アイヌの人たちの歌や踊りは、動物や植物、雷や風など、北国の大自然に存在する多くのカムイたちとの関わりのなかで生まれてきたと考えられています。そして、長い歴史のなかで、さまざまな歌や踊りが作られ、伝承されてきました。
 歌にはクマの霊送りなど儀式のときの祭り歌、余興のときの座り歌や即興歌、仕事のときの作業歌、それに子守歌や子どもたちの遊び歌などさまざまな種類があります。また、踊りには動物の姿をまねた動物踊りや悪い神を威嚇する呪術的な踊り、ゲームの要素をもった踊りなどがあります。



イオマンテでの踊り

コラム
 ムックㇽ(口琴)

 マウスハープに属するアイヌ民族の伝統的な楽器。今のものは竹で作られていますが、かつてはネマガリダケやノリウツギで作られたといわれ、地方によってはムックㇼと呼ばれています。
 紐を引いて弁を振動させ、口の中に反響させることによって音を出します。


※当館ミュージアムショップで販売しています(300円)。
 近代以降のアイヌ文化
近代以降のアイヌ文化
 明治になり、十勝の開拓が進んでいく反面、アイヌの人たちの生活は困難を極めていきました。言葉や風俗習慣は和人化され、重要な食料であったサケやシカは捕獲が禁止されました。明治政府は強制的にアイヌの人びとを十勝川や利別川などの周辺に集めて土地を開墾させ、農業を行わせようとしましたが、成果は上がらず差別と偏見が助長されてきました。
 こうしたなかで、しだいに民族の自立活動が盛んになり、伏根弘三や吉田菊太郎らが活躍し、アイヌ民族の自立や文化の伝承活動が進められていきました。
十勝アイヌの文化伝承活動
 明治以降、同化政策が進められながらも、アイヌ民族の文化は決して消え去ることなく、人びとの間に伝えられてきました。そして、現在も後世へ伝えていこうとする活動が北海道各地で活発に行われています。
 帯広では、1950年代に古式舞踊の伝承活動を行う団体が組織され、その後、この団体が中心となって1964(昭和39)年に帯広カムイトウウポポ保存会が設立されました。この会で伝承されている歌や踊りは、代表的なものだけでも30種類以上あり、現在ではこうした活動が認められ、帯広市指定文化財や国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 
 
カムイトウウポポ保存会による古式舞踊
 コラム  松浦武四郎

 松浦武四郎は伊勢国(現 三重県)で生まれ、幕末に現在の北海道をはじめ、樺太(現 サハリン)などを探検し、多くの記録を残しました。十勝には1845(弘化2)年から1858(安政5)年にかけて4回訪れています。とくに安政5年の2回の探検では、十勝川や歴舟川筋を中心に十勝の内陸を巡り、自然やアイヌの人びとの生活のようすを見聞して『十勝日誌』や『東蝦夷日誌』などにまとめました。
 明治になると開拓判官に任命され、明治政府に「北海道」の名称や国郡名を提案するなど北海道の基礎作りに活躍しました。しかし、一年ほどで職を辞し、以後は旅行と著作活動に費やして、1888(明治21)年に71歳で亡くなりました。