帯広百年記念館のページ 自然系スタッフのコラム
帯広百年記念館 歴史系スタッフのコラム                 
寺子屋・百年記念館
〜史料から歴史をひも解きます〜
担当:大和田 努=ば(百年記念館・学芸員)&菅原慶郎=す(元学芸調査員)
写真はクリックで拡大  
2016.2.28 
 第三十六講
  勉三、湖で溺れる  

★十勝の沿岸部には生花苗(おいかまない)沼や湧洞沼など多くの湖沼が存在します。勉三は牧場のあった生花苗と、十勝川河口の大津とを沿岸部を通って行き来していましたが、思わぬ自然現象に遭遇します。 

○明治26(1893)年9月30日
三十日陰、霧。余前製図。後大津エ向ヒ出発ス。湧洞ヨリ馬ヲ託サレ「ツープラストウ」ニ至ル。河潰ユ。余二度溺ル。湧洞老人ニ逢フ。仝洞ヲ渡リ老人ニ馬ヲ渡シ、大津ニ至リ永嶋ニ泊ス。

依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治二十六年九月三十日条

【現代語訳】
30日曇、霧。私勉三は午前中製図を行ない、午後大津に向けて出発した。湧洞で馬を預かり、ツープラウストーに到着したところ、ツープラウストーが海と繋がっていた。私はここで二度溺れた。湧洞沼を渡り、湧洞老人(佐藤嘉兵衛)と会う。佐藤嘉兵衛氏に馬を渡し、大津に至り永嶋の家に宿泊した。


【解説】
 十勝の沿岸部には、生花苗沼、湧洞沼、長節湖などの湖・湿地帯があり「十勝沿岸湖沼群」と呼ばれています。生花苗に牧場を持っていた依田勉三は、こうした湖沼群を間近に開拓をしていました。普段、これらの湖沼と海とは細い砂州で隔てられています。しかし、しばしば砂州が破れて、海と湖沼が繋がってしまうことがあります。勉三はこの現象にたびたび遭遇し、日記では「河潰ゆ」などと書き表しています。
 さて勉三は、生花苗牧場と十勝川河口の大津とを頻繁に行き来します。往来には湖沼群と海の間の砂州を通るのが最短距離で、かつ樹木の障害物がなく便利だったようです。しかし、湖と海が繋がってしまった場合は、湖を大きく迂回して山間部を通り大津を目指さなくてはなりませんでした。
 日記の記述を見てみましょう。「ツープラウストー」は、湧洞沼と長節湖との間にある小さな沼です。グーグルマップで現在のようすを示すとこのようになります。この日記が書かれたとき、「ツープラウストー」は沼と海がつながった状態でした。勉三は湖を迂回するのが面倒だと思ったのでしょう。そのまま流れの中を進もうと考えたようです。しかし小さな沼とはいえ流れは相当にあったようで、勉三は二度溺れてしまいました。湧洞沼付近で開拓をしていた佐藤嘉兵衛家から預かっていた馬も危険な目に遭ったと考えられますが、無事に佐藤嘉兵衛のもとへ届けられたようです。なお、湧洞沼など大きな湖沼が海と繋がった際の流れは激しく、さすがの勉三も山間部を迂回しています。
 現在でも「沼潰ゆ」る現象は十勝の海岸湖沼群では発生しています。交通路が整備された現在ではあまり注目されませんが、開拓者の往来が頻繁だった時代には思わぬ「通行止め」として頭を悩ませる現象でした。 (ば)
 


現在の湧洞沼


「備忘 六」
明治26年9月30日条


画像はクリックで拡大します
2015.11.6 
 第三十五講
  沢に落ちた牛  

★依田勉三は明治20〜30年代に函館で牛肉店を経営したり、明治末から大正7年までバターを作って東京へ販売しました。商売をするうえで大切な存在であった牛に対する勉三の姿勢について今回は見てみましょう。 

○明治32(1899)年3月21日、22日○
忠・サカ、八時半帰る。此日牛四頭山より落ち、二頭は沢より引き上げ生活し、一頭は木の根に挟まり死す。一頭は沢中に居り、之を上くるに勢いなく草を食せず。多分今夜死すならん、と云ふ。

(次の日)

余は昨日忠兵衛等見たる牛二頭を皮剥監視に往く。一頭は木根の間に挟まり顛倒し崖に懸かれり。一頭は谷底へ落ち、未だ呼吸せり。然れども感覚無し。余之を治療す。火を焼き雪を含す。遂に効なし。懸崖の牛を皮剥、午食す。谷底の牛を皮剥がんとす。余は之を認めて去る。帰宅。

 依田勉三「備忘 八」(当館所蔵)、明治32年3月21日、22日条より引用

【現代語訳】
忠兵衛とサカナハウエ(日記では名前が略されている)が、八時半に帰ってきた。彼らが言うには「この日、四頭の牛が山から落ちた。二頭は沢より引き上げ無事に生活していて、一頭は崖の途中の木の根に挟まって死んだ。最後の一頭は沢にいる。この一頭は引き上げようとしても勢いがなく、草も食べていない。恐らく今夜死ぬだろう」とのことだった。
(次の日)
私勉三は、昨日忠兵衛たちが見た牛二頭を皮剥・監視に現場に行った。一頭は木の根に挟まりひっくり返って崖に引っかかっていた。一頭は谷底に落ちている。まだ呼吸していたが、意識はない。私はこの牛の治療を行った。火を焚いて雪を溶かして水を口に含ませた。しかし効果はなかった。崖に引っかかっている牛の皮を剥ぎ、昼食をとった。(忠兵衛たちが)谷底の牛の皮剥を行おうとしたので、私はこれを許可して現場を去り、帰宅した。


【解説】
・生花苗にあった晩成社の当縁牧場での出来事です。明治19年以来、当縁牧場では牛を飼っていました。日記を読むと牛が転んだり高所から落ちたりして死ぬ事故が頻繁に起こっています。熊に襲われるという事例もあります。死んだ牛を見つけた場合、皮を剥ぎ、可能であれば肉も切り出して、近くの人に贈ったり販売していたようです。
・今回の事例でも、二頭の牛が崖から落ちて死んでしまいました。死んだ場合、即座に皮を剥ぎ肉を取るべきだと勉三も理解していましたが、一頭はまだ呼吸があったようです。勉三はなんとか回復できないかと、牛を温めたり雪を含ませて水分補給を試みます。効果はなく、この牛も皮や肉を取ることになったのですが、可能性があるうちは治療しようという勉三の姿勢が記事から伝わってきます。
・明治22(1889)年、勉三は冬場の餌を十分に準備できず、20頭の牛を失ってしまいました。これを反省して当縁牧場に牛を祀る「祭牛之霊」碑を建てています。この碑は現在も大樹町の当縁牧場跡に存在しており、日記で見た牛を大切にする姿勢を伝えています。 (ば)





 

「祭牛之碑」
(大樹町生花 晩成社跡)


「備忘 八」
明治32年3月21日、22日条

画像はクリックで拡大します
2015.10.9 
 第三十四講
  依田勉三のスタンプ  

★十勝開拓の歴史を語るときに欠かせない存在となっている依田勉三・晩成社。それでは、いつ、誰が、晩成社や依田勉三といった存在を地域の歴史の中で見出していったのでしょうか。今回は依田勉三スタンプをきっかけに考えてみようと思います。
    
「スタンプ(ゴム版)」(『中島武市関係資料』所収、収蔵番号9986)   「石版」(『中島武市関係資料』所収、収蔵番号9988)
 
●写真左の資料は依田勉三のスタンプ、右は印刷用の石版です。これらは昭和16(1941)年の依田勉三を讃える銅像鋳造の際につくられたものです。スタンプを押したり、シルエットを印刷することで、勉三の功績を広めることに役立ったことでしょう。
          
●スタンプを押すと、このようなデザインになります。鍬を持った姿に「開拓ノ人柱/依田勉三翁」と紹介があります。そして「銅像除幕式記念/16.6.22/帯広」とあります。先ほど述べたとおり、依田勉三像建造の際の記念スタンプと分かります。残念ながら古い資料で顔や円周の一部が欠けてしまっています。
●依田勉三像の建造を企画したのが帯広の実業家中島武市です。初代の勉三像は昭和16年に建造されたのち、金属応召によって失われます。その後、昭和26(1951)年に中島が再建します。これが現在も帯広神社前の中島公園に現在も建つ像です。
●中島武市はどのような人物だったのでしょうか。中島は岐阜県出身で、大阪で丁稚奉公をしたのちに、帯広で古着などを扱う「みつわ屋」を開業していました。市議会議員をはじめ、帯広市実業連合会長や十勝商工会連合会頭、帯広ロータリークラブ会長など要職を歴任しました。
●中島武市は帯広・十勝開拓の象徴的人物として依田勉三に注目しました。昭和16年のラジオ座談会でこのようなことを言っています。
 「何か十勝の人々に、直感的に目標になるものがと考えた結果、これには先輩が幾度か計画出来なかった依田翁の銅像を是非建てて見たいと思いました。」
 中島は銅像建立のほかにも、昭和14(1939)年に「開拓の人柱依田勉三翁を語る」という冊子を刊行してその功績を広めようと努めています。スタンプや印刷用の石版も、こうした中島武市の「依田勉三キャンペーン」の一環としてつくられたものだったのです。
●このような昭和戦前期の中島武市の活動のおかげで、依田勉三の事績が現在の私たちにとっても身近なものになっています。ただし、後の時代に象徴的に扱われるあまり、具体的な活動がはっきりわからない部分もあります。『寺子屋百年記念館』では、今後も当時の史料に基づいて、依田勉三や晩成社の開拓のようすを紹介していきます。
2015.6.23 
 第三十三講
  初代 帯広小学校  

★第三十一講、三十二講と「十勝帯広図(晩成社控図)」に描かれた明治29(1896)年の帯広のようすを見てきました。地図には、この他にも120年ほど前の帯広の姿が描き込まれています。

   
        「十勝帯広図(晩成社控図)」(『依田昭二氏寄贈晩成社史料』所収、収蔵番号9380)

●地図中央の赤く彩色されている道路が帯広の大通です。字が逆さまでわかりにくいですが、現在と同じ住所になっています。
●大通6丁目の右側、西1条6丁目に青い四角で囲われた「帯広学校」の文字が見えます。これは初代帯広小学校を指しているのですが、書いた人が場所を間違えており、西1条7丁目が正しい所在地です。よく見ると、「帯広学校」の文字に×印が付いており、正しい場所である7丁目に「学校」と訂正して書き加えられています。
   
                   初代の帯広小学校(明治29年) 当時は帯広尋常小学校

●初代の帯広小学校は、明治29年、西1条7丁目に設置されました。西1条通りが道路として整備されるのは3年後の明治32年のことです。
●開拓時代は
子どもも貴重な働き手であり、学校を休む児童が多くいました。初代校長である本間勘四郎先生は、「授業も大事である。学令に達した子供をいつまでも野良に出しておくのは問題だ」と熱心に父母の説得に当たったと伝えられています。
●帯広小学校の児童数は急激に増加し、開校時には数十名程度だったものが、10年後の明治39年には635名になり、その後も増加の一途をたどります。大正10年(1921)年ころ児童は1600名に達し、市内で2番目の小学校である柏小学校が開校します。
●児童数が示すように、帯広は明治30年代から急速に人口が増加し、都市として発展していきます。「十勝帯広図」はその直前の、都市として整備されつつある帯広のようすを伝える史料と言えるでしょう。
●2代目の校舎は、明治38年に西3条7丁目(現在の中央公園)に造られ、さらに昭和49(1974)年に西8条南5丁目に移転し、現在に至っています。 
 (ば)  
 
2015.5.8 
 第三十二講
  鉄道の夢  

★第三十一講で読んだ史料「十勝帯広図(晩成社控図)」について、さらに深く見てみましょう。

      
「十勝帯広図(晩成社控図)」(『依田昭二氏寄贈晩成社史料』所収、収蔵番号9380

●この地図は晩成社の「帯広農場」を中心に描かれたもの(第三十一講参照)の一部です。下が北、上が南の地図であり、現在の帯広市依田町付近から南方面が記されています。作成年は書かれていませんが、明治29(1896)年ころの帯広であると考えられます。
●地図には現在の国道38号線沿いに、「鉄道見込線」が書き込まれています。明治20年代後半から30年代にかけて、線路は国道沿いに敷設されると考えられていました。「十勝帯広図」からもそのようすがうかがえます。

       

●「十勝帯広図」には駅の予定地も記されています。画像は「十勝帯広図」の右辺下部です。大通5丁目付近に「停車場見込地」と記されています。
●このころ、帯広の人びとは将来できる帯広駅の設置場所について関心を高めていました。駅前に商店を構えることができれば商売繁盛に直結するからです。当初、駅の予定地は国道沿い西4条から西9条と予想され、人びとは競って付近の土地を求めたと言われています。駅の場所が決定する直前には東1条にできるという風説もあり、今度はそちらに買い手が殺到しました。
●明治38年、最終的に現在の位置に駅が設定されます。予想外の場所であったために人びとは唖然としたと伝えられています。また、決定した駅用地付近には前河西支庁長諏訪鹿三の農場があり、設置の経緯をめぐってさまざまな風評が飛び交いました。
●もしも人びとの予想通りに線路や駅が完成していたら、帯広市街地の形態も大きく変わっていたことでしょう。「十勝帯広図」は、そのような可能性があったことを今に伝えています。 (ば)


 
2015.2.20 
 第三十一講
  晩成社地図からわかる明治29年ころの帯広市街  

★帯広百年記念館所蔵の晩成社史料には、晩成社の所有地を示す地図があります。なかには周辺のようすが書き込まれた地図もあります。

    

     
「十勝帯広図(晩成社控図)」(『依田昭二氏寄贈晩成社史料』所収、
収蔵番号9380

●この地図は晩成社の「帯広農場」を中心に描かれたものの一部です。地図の上が方位の南を示しており、現在の帯広市依田町付近から南方面が記されています。で囲った箇所が、電信通と国道38号線が交差する「帯広発祥の地」記念碑がある場所です。作成年は書かれていませんが、明治29(1896)年ころと考えられます。

●はじめは無願開墾で開拓を進めた晩成社でしたが、土地区画整備事業が進むにつれて道庁に申請を行い、土地の貸付や付与の許可を得ていきました。薄い黄色で塗られた箇所が晩成社所有地で、明治26年に付与された土地です。おおよそ現在の依田町から大通付近までの土地が「帯広農場」と呼ばれた晩成社の農場でした。

●「帯広農場」の南側の茶色く塗られた土地は十勝農事試験場です。明治28年に開場し、稲・豆・果樹なを試作していました。

●農事試験場の南西に墓地がみえます。これは現在の帯広墓地(東8条南14丁目)で、位置も面積もほぼ変わっていません。帯広市街地は明治26年から区画の整備が始まり、29年に貸付が開始、墓地は明治29年5月6日に用地の下付がなされました。

●この地図は墓地用地選定の事実を裏付けるなど、帯広市街地のようすを探る上でも重要な情報を秘めています。 (ば)


2014.12.12 
 第三十講
  依田善吾、クジで北海道行きを決意する 

★依田勉三の弟に善吾という人物がいます。晩成社の株主であり、後に自身も帯広に赴き晩成社の仕事を支えた人物です。本講では、善吾が北海道行きを決意した場面を見てみましょう。

○明治26年4月29日○
〔イリヤマキュウ〕隠居にて善吾北行のことを謀る。晩刻、善吾来り。〔イリヤマキュウ〕、兄と四人談合す。決せず。遂に籤を抽く。其籤に曰「夫妻共に北行すべし」と。是に於て一決す。
依田勉三「備忘 七」(当館所蔵)、明治26年4月29日条より引用

※〔イリヤマキュウ〕:日記での表記は「ΛΛ」と「久」を上下に組み合わせた記号。勉三のいとこの依田善六が経営していた「塗り屋」の印であり、ここでは善六本人を指します。晩成社の初代社長です。
※善吾:勉三の弟 
※兄:勉三の兄・佐二平を指します。日記の時期の晩成社社長です。

【現代語訳】
善六の家の隠居において、善吾の北海道行きの計画を練った。晩に善吾がやって来た。私、善六、佐二平、善吾の四人で相談したが、決まらなかった。そこでクジを引いて決めることにした。クジを引いたところ「善吾夫妻は共に北海道に行くべし」と書いてあった。こうして善吾の北海道行きが決定した。

【解説】
 晩成社の事業を補佐するため、善吾を北海道へ向かわせようと説得する場面です。はじめ勉三ら4人の話し合いでは結論が出ず、結局クジで行くかどうかを決めています。引いたクジは、善吾に北海道に来て欲しいと考える勉三に好都合なものでした。
 クジの結果を疑ってはいけないのですが、もしかすると、相談が難渋することを予想して、あらかじめ勉三にとって都合の良いクジが用意されていたのかも知れません。
 この明治26年の年末に、勉三が函館に牛肉店を開業するため、善吾は帯広で本社の業務を担当することになります。明治40年代に勉三が十勝でバターを製造した際は、善吾が東京で顧客を見つけて販売しています。このように、クジで北海道行きを決意した善吾は、後に晩成社の業務に欠かせない存在になっていきます。  (ば)



依田善吾


「備忘 七」
明治26年4月26日条

画像はクリックで拡大します
 
2014.10.7 
 第二十九講
  発見された『十勝史』の原稿 

★今年、帯広百年記念館に『十勝史』の原稿が寄贈されました。『十勝史』とは何か、また、その原稿が寄贈されたことはどんな意味があるのかを紹介します。

■『十勝史』とは何か? 安田巌城と酒井章太郎
 
『十勝史』は明治40(1907)年に、河西支庁(現在でいう十勝総合振興局)が刊行した、十勝の自然・地理・歴史を総合的に編集した書物で、明治時代の十勝の様子がわかる貴重な資料です。
 『十勝史』の編者は、本の奥付を見ると酒井庄太郎とありますが、実際には酒井章太郎が正しい名前のようです。酒井は明治34年ころ帯広に来て、なんでも屋を開業しています。明治37年ころから家を何度も留守にしながら『十勝史』の編集を行っていたことが、娘の回想からうかがうことが出来ます。
 一方、実質的に執筆の任に当たったと言われるのが安田巌城です。安田は福岡県出身で河西支庁第二課拓殖係として勤務しました。アイヌ民族の給与地の管理などを行ったほか、『十勝史』をはじめ『十勝地名解』などを著したとされる人物です。ただし、刊行された『十勝史』には、安田が執筆した旨は記されていません。
 

   『十勝史』原稿の表紙 

  『十勝史』原稿の内部

■『十勝史』原稿の持つ意味
 このたび『十勝史』の原稿が、安田巌城の孫である安田弘氏より寄贈されました。この史料を寄贈いただいたことで、『十勝史』の執筆に安田巌城が関わっていた確実な証拠が現れたことになります。
 原稿について細かく見てみましょう。原稿は『十勝史』のうちの「概要及沿革」「帯広沿革」の箇所を筆で書いたものです。所々に抹消線や書き入れがあり、文章の校正中であることがうかがえます。また、現在に残る完成版と比べると、おおよその文章は一致していますが、若干表現が異なる箇所も見られます。恐らく、この原稿が作成されたのちも、何度か校正を重ねて完成させていったのでしょう。
 『十勝史』は、開拓が始まった直後の十勝の細かな情報までをまとめ上げた書物です。そうした乾性への苦労や熱意を知る上でも貴重な史料と言えます。

※『十勝史』の復刻版は当館リウカでご覧いただくことが出来ます。(ば)

2014.7.16 
 第二十八講
 「渡辺カネ、帯広の歴史を語るA」 

★本講では、第二十六講に引き続き、渡辺カネへ届いた届いた葉書から、晩年のカネの様子を確認していきましょう。

       
                               「宮崎孟雄葉書」(帯広百年記念館蔵『渡辺洪氏寄贈資料』来信9)

【翻刻】
 拝啓 先般はご多用中の処帯広市史編纂史料蒐集のため釧路鳥取村居住の原勝悟氏と参上仕り候折りハ、何かと往時のお話を被下御陰様を以って貴重な材料を得られ厚くお礼申上候、御老人様には厳寒の折から益々御身御大切に.


【解説】
 「御老人」と尊称される79歳の渡辺カネに届いた葉書です。消印などを見ると昭和12(1937)年2月7日に書かれた葉書と判明します。差出は宮崎孟雄とあり、十勝農業学校の講師と思われます。
 内容を見ると、「帯広市史編纂史料」を集めるために、「往時のお話」を聴いたとあります。第二十六講でみた内容と同様に、晩年のカネのもとに入植当時のことを尋ねる動きがあったことが、この史料からもうかがえます。
 葉書中で言及されている「帯広市史」編纂事業は、昭和18(1943)年に『帯広市史稿』として結実します。カネへのインタビューも『帯広市史稿』の材料となったことでしょう。  (ば)

 
2014.5.13 
 第二十七講
 「マルセイ牛肉の値段は?」 

★依田勉三は、明治26(1893)年の12月に函館に牛肉店を出店します。当時の史料から牛肉店経営の実態を追及してみましょう。本講ではマルセイ牛肉の値段についてわかる史料を読みます。
  
        
   この「牛肉通」と書かれた帳簿は、依田勉三の子息・八百氏より帯広百年記念館に寄贈された史料です。
    牛肉や豚肉が売れた際に、重さと値段について書き加えていったものです。中身を見てみましょう。

       

          日付、もらった代金、1斤(600g)当たりの値段、販売した牛肉や豚肉の重量の順で書かれています

【翻刻(漢数字をアラビア数字に直しました)
11月29日
一、金9円45銭  10.5銭  90斤まし

12月1日
一、金1円60銭  16(銭)  牛正肉10斤

同2日
一、金10円17銭  9.0銭  113斤

同3日
一、金4円90銭  7.0銭  70斤


一、金28銭1厘  豚2斤2分5厘

同4日
一、金8円15銭  9.0銭前後  70斤


【解説】
 牛肉は、1斤(600g)あたり7銭〜16銭の価格であったことが分かります。値段が異なる理由は、肉の部位や品質によって値段を分けていたためだとも考えられます。
 単純に貨幣の価値は比較できませんが、明治30年頃の1銭が現在の200円くらいに相当するようです。ですからマルセイ牛肉は100gあたり230円〜530円程度といったところでしょうか。高いか安いか、いかがでしょうか? (ば)

                                        

2014.3.19 
 第二十六講
 「渡辺カネ、帯広の歴史を語る」 

★晩成社には多くのエピソードがありますが、これらの中には昭和初期に渡辺カネが研究者などからインタビューを受けたことで初めて記録されたものもあります。本講では、まず渡辺カネへの聞き取り調査の様子を示す史料をみてみましょう。

       
                           「高倉新一郎葉書」(帯広百年記念館蔵『渡辺洪氏寄贈資料』来信4)
【表面の翻刻】
(消印の日付は昭和9(1934)年8月3日)
 帯広市オベリベリ
 渡辺かね子様
 北海道帝国大学/農業経済学教室/高倉新一郎

【裏面の翻刻】  
《 》内の読みは翻刻者が補いました。
暑中御伺申上げます。
昨年は御多忙中参上いろいろ御話を承り有難く御礼申上げます。もう一年を経過しますがその節御話申上げました御尊父鈴木親長先生の「北海道団結殖民法」の一書、拝見すればする程面白く、是非研究紹介いたしたおき度
《たく》、ついては十四日盂蘭盆に帰帯致しますを幸い四、五、六の三日間の内何れの日にか御伺い致し度《と》う存じます。御差支ない日時を御知らせ下さらば(店の方へでも)幸いに存じます。御手数の事のみお願ひ致し申訳が御座ゐません。

【解説】
・高倉新一郎から渡辺カネへの葉書です。高倉新一郎は帯広出身の研究者で農業経済、北海道史、アイヌ文化史を専門にして多くの著述を残しました。この時は北海道帝国大学農学部の助手の地位にありました。
・葉書を読むと、一年前の昭和8年にもカネから話を聞いたことがわかります。そして、さらに話を聞きたくなり、お盆の地元帯広への帰省を機会として、カネの都合の良い日程を伺う内容になっています。
・昭和初期、すでに開拓当初の様子を知る人物はほとんどが亡くなっていました。長命を保ったカネのもとを訪れ話を聞こうとする動き、またそれにカネも応える姿勢があったことがうかがえます。
・高倉新一郎の『郷土と開拓』(柏葉書院、1947)の「開拓と女性」という章に、渡辺カネについて言及した部分があります。本講の史料でみたカネへの訪問が、著述の際に役立ったことでしょう。   (ば)


 
2014.1.31 
 第二十五講
 「明治37年の十勝人ランキング」 

★今から110年前、明治37(1904)年のことです。当時存在した『十勝新聞』の紙上で十勝人のなかから著名な人物を選んで投票する「十勝人ランキング」ともいえるアンケートが行われました。

・『十勝新聞』紙上で「十勝十傑」と題して、十勝の著名人10人を選ぶアンケート企画が行われました。10の項目を設け、それぞれの分野で活躍する人物を新聞購読者が選ぶシステムであったようです。以下が新聞に付随している投票券です。

  
   『十勝新聞』明治37年4月6日(当館所蔵『津田禎次郎関係資料』所収「津田禎次郎関係新聞」)

 ・農業家、商業家、工業家、吏務家、徳望家、敏腕家、交際家、漁業家、政治家、雄弁家の10の項目があり、それぞれに1票を投じることができたようです。『十勝新聞』紙上には、集計の途中経過が掲載されています。次にその途中経過を見てみましょう。

  
   『十勝新聞』明治37年4月6日(当館所蔵『津田禎次郎関係資料』所収「津田禎次郎関係新聞」)

・農業家の1位は115票を得ている依田勉三です。2位の久島重義、3位の新津繁松を大きく引き離す得票数になっています。ここから、明治37年の時点で「十勝において農業家と言えば?」と問われると、多くの人が依田勉三を思い浮かべたことがわかります。
・2位の久島重義は池田町にあった池田農場の管理人です。3位の新津繁松は利別で農場や牧場を営み、明治34年からは北海道議会議員の職にあった人物です。
・晩成社は十勝内陸部の開拓について先駆的な立場にありましたが、明治30年代も経営は決して良好とはいえませんでした。むしろ、大農場を経営し開拓を進めた久島や新津の方が、農業に大いに手腕を振るっていました。それでも人々が依田勉三が第一の農業家であるというイメージを持っていたことがこの史料からわかります。当時の人びとの持つイメージも、実態としての農業の状況も、どちらも過去を振り返る上で大切なテーマです。(ば)

 
2013.12.28 
 第二十四講
 「勉三、年賀状を書く」 

★2013年も残りわずかになりました。年賀状に追われている方も多いのではないでしょうか。本講では依田勉三の年賀状の様子を日記から見てみましょう。

○明治26年1月11日、12日、16日○
一月十一日、(中略)余備忘を記し後年始状を認め夜に入る。(以下略)
一月十二日、(中略)余前年始状を認め投函を命じ…(以下略)。
一月十六日、(中略)余書状を認め年始状及用信共合で粗る。一月十一日以来認むる所年始状凡そ…(以下略)。
 
依田勉三「備忘 七」(当館所蔵)、明治26年1月11日、12日、16日条より引用

【現代語訳】
一月十一日。私は備忘を記し、その後年賀状を書いているうちに夜になった。
一月十二日。私は午前中に年賀状を書いて、その投函を命じた。
一月十六日。私は書状をしたためた。年賀状と手紙の双方に関して粗々書き終わった。年始状は一月十一日以来書いていたものである。

【解説】
・明治26(1893)年のお正月に、勉三が年賀状を書いていることがわかる史料です。
・注目すべきは、勉三が年明けの1月11日から年賀状を書いたことです。現代の感覚からすれば、かなり遅れて年賀状を書いているように思われますが、当時は年明けに書くことが一般的でした。
・また1月11日から書き始めた勉三は、出来上がった年賀状から随時投函していったこともうかがえます。これも現代の慣習とはやや趣が異なる部分と言えます。
・本講では省略しましたが、すべての年賀状を書き終えた1月16日に、勉三は年賀状を出した相手を日記に書き上げています。総数62名。こうした部分から、勉三の交遊範囲を追及することも可能でしょう。
・郵便制度が確立するなか、明治20年代にハガキで年賀状を送る風習が生まれます。そしてあまり時を置かずに、12月の内に年賀状を仕上げて、1月1日に届くことが当たり前の時代になっていきます。しかし、勉三が示してくれるように、年が明けてから筆をとることが従来のあり方でした。
 現在年賀状作成に追われている方も、勉三にならって年明けにゆっくり作成するのも、もしかしたら良いのかも知れません。   (ば)

 
 
   「依田勉三年賀状」
(『津田禎次郎関係資料』当館所蔵)
 明治43年に勉三が津田禎次郎に宛てた年賀状。1月6日の消印が見える。


2013.11.27 
 第二十三講
 「マルセイバタ」は誰が食べた? 

★晩成社が十勝でつくった「マルセイバタ」。二十一講、二十二講までに確認したように、東京の西洋食料雑貨店に鉄道で運ばれていました。史料からは、特に「青木堂」というお店にバターを卸していたことがわかります。本講では、この「青木堂」を客として利用していた人々を見ていきましょう。

明治の文学者は多く報酬を得たとはいえない。それらの煌めく菓子たちは大てい戴きものであって、私たちが常用したのは本郷、青木堂のマカロン、干葡萄入りビスケット、銀紙で包んだチョコレート、ドロップ、カステラなぞであった。
森茉莉『貧乏サヴァラン』「お菓子の話」(筑摩書房、1998年)

青木堂というのは、洋酒、洋菓子、舶来煙草などを売る、当時のハイカラな店でわたくしの家はここのお得意さまでした。父のための洋酒、葉巻煙草をはじめ、来客用や子どものおやつとして、ビスケット、デセール、ワップル、ウエファース、コンビネーション、テーブルチョコレートなどを注文するのですが、ここは注文だけすれば配達してくれました。
平塚らいてう『元始、女性は太陽であった 上』(大月書店、1971年)

・森茉莉は森鴎外の娘です。幼少期に食べたお菓子を思い出す中で、「青木堂」について触れています。そして、女性解放運動で知られる平塚らいてうもまた「青木堂」を利用した一人でした。この他に、夏目漱石の『三四郎』にも、主人公三四郎が「青木堂」を何度か利用する場面があります。
・「青木堂」は一階は食料雑貨店、二階はカフェの形態をとる店舗であったようです(古川緑波『ロッパの悲食記』「甘話休題」)。
・森茉莉や平塚らいてうの回想にはたくさんの菓子が登場します。そのなかにはバターが含まれるものもあったでしょう。「マルセイバタ」は、もしかしたら明治の著名な作家たちの口にも届いていたのかも知れません。
・このように依田勉三は、バター販売について「青木堂」という確かなお得意先を得たようです。この背景には衆議院議員であった兄の佐二平や、東京でバターの販売に尽力した弟・善吾の影響力があったかと予想されます。こうした点の調査が今後の課題です。  (ば)
 
 
   
「青木堂から晩成社宛の葉書」
「マルセイバタ」に不良品があったことを伝える内容。



  
     森鴎外
「青木堂」で菓子などを購入していた。「マルセイバタ」が使われた菓子を食べていたかもしれない。

2013.10.27 
 第二十二講目
 鉄道で運ばれた「マルセイバタ」 

★前講では東京へ出荷された「マルセイバタ」の量に関して史料を紹介しました。本講では「マルセイバタ」がどのように東京まで運ばれたかを確認してみましょう。

・以下に掲げる史料は、内国通運(後の日本通運)の運賃票です。

          
                           帯広百年記念館所蔵『森和夫氏寄贈晩成社関係資料』「内国通運運賃票」

十勝生花苗在住の勉三(史料では「生花苗/依田」と記される)から、東京在住の弟・善吾へ樽入り「マルセイバタ」6個が発送されました。この代金として、内国通運は6円13銭を善吾に請求しました。この史料を手がかりに、「マルセイバタ」の輸送について考えてみましょう。
@勉三は豊頃駅から「マルセイバタ」を発送しました。内国通運の業務を代理する「上田運送部」という商店が豊頃にあり、発送を行ったようです。
A運賃票には内国通運神田支店の印が押してあります。神田支店は神田区和泉町に存在し、貨物駅であった秋葉原駅に届いた荷物の配達を担いました。ここから、豊頃駅から載せられた「マルセイバタ」は青函航路を経由し、東京秋葉原駅に鉄道輸送されたことがわかります。
B内国通運神田支店により、秋葉原駅から下谷区上車坂町二十一番地にある善吾の宅(晩成社の東京事務所?)に「マルセイバタ」が到着します。善吾はこれを受取り、代金を支払います。そして善吾宅から、第二十一講でみた青木堂や、十二講でみた広屋商店に商品を卸したのでしょう。
C秋葉原駅、善吾宅、青木堂、広屋商店はいずれも東京上野・本所界隈に所在し、互いに数qの距離にあります。東京に届けられた「マルセイバタ」は、ターミナルの秋葉原駅の近隣で卸され、出回っていたことが想像されます。 (ば)

 
2013.9.27 
 第二十一講目
 「マルセイバタ」100sを東京へ! 

★晩成社が製造した「マルセイバタ」は東京へ出荷されていました。本講では「一度にどれくらい、どういった場所に送られていたのか」という疑問について、二つの史料から考えてみましょう。

・この史料は十勝の依田勉三から、東京在住の弟の善吾へ送られた手紙です。
  
                                  帯広百年記念館所蔵『森和夫氏寄贈晩成社関係資料』「依田勉三書簡」
・この手紙からは次のことがわかります。
@まず、手紙のはじめに、勉三はこのように書いています。
青木堂という商店からバターの注文が10樽入りました。荷物の都合で12樽送ります。10樽は青木堂にお送りください。残りはしかるべきところにお売りください。
A十勝で製造した「マルセイバタ」に関して、東京では弟の善吾が受取や販売を担当していたことがわかります。
B樽の内容量を見ると、1樽賞味15斤程度と見えます。15斤は9sです。したがって、キログラムに換算すると、勉三は108sのバターを本州へと送っています。そして10樽頼んだ青木堂は、一度に90sも「マルセイバタ」を注文したわけです。

・次にバターを注文した青木堂のバターの請取証が残っています。これも見てみましょう。

       
                帯広百年記念館所蔵『森和夫氏寄贈晩成社関係資料』「記〔青木堂バター請取証〕」
・この史料からは次のことがわかります。
@青木堂は東京本郷五丁目にある水谷商店の商号のようです。
A青木堂では「和洋刻煙草、マニラ・ハバナ葉巻」「欧米各種酒類食料品」「食器類」「香水・石けん・化粧品」などが販売されていたようです。十二講で紹介した広屋商店と同じように、東京にある西洋の食料雑貨を取り扱う商店に「マルセイバタ」は出荷されました。
Bはじめの史料によれば発送日が9月27日、青木堂の請取りは10月8日です。発送から11日でバターは到着しました。

・二つの史料からは、晩成社が東京の食料雑貨店に一度に90sものバターを送るという果敢な姿勢を見ることができます。次回は「マルセイバタ」がどのような手段で東京へ送られたのかを解説します。


  
2013.8.18 
 第二十講目
  勉三の浅草めぐりA 

★第十九講に引続き、勉三の東京観光の様子をみていきましょう。今回は、「凌雲閣」と「楠公像」について解説します。

明治25年12月20日○
昧爽鈴木伯父と共に小石川を出で本町辺より馬車に乗り泉健に至り、家兄に逢ひ共に同署を出で三人にて浅草公園に至り書画、花卉を観、蕎麦を食しパノラマを見る。凌雲閣に上り上野に至り楠公馬上の木造を見る。三人小石川に帰り、伯父の家に泊す。
依田勉三「備忘 七」(当館所蔵)、明治25年12月20日条より引用

【現代語訳】
朝早く、鈴木伯父と共に小石川の宅を出発。本町辺りから馬車に乗って、旅館の泉健に到着。そこで兄の佐二平と合流し、同所から三人で浅草公園に行った。公園では書画や草花を見た。その後そばを食べて、パノラマを見た。また凌雲閣に上った。次に上野に行って、楠木正成馬上像(木造)を見た。三人で小石川に帰り、伯父の家に宿泊した。

【解説】
・凌雲閣は、別名「浅草十二階」とも呼ばれた十二階建ての塔です。明治23(1890)年に開業し、当時は高層建築が珍しかったこともあり、大変なにぎわいをみせました。勉三もこれに上り、遠く関東の山々を見渡したのでしょう。なお、凌雲閣は大正12(1923)年の関東大震災で半壊し取り壊されます。
・次に一行は上野に至り「楠公馬上の木造」を見ました。現在皇居外苑には、馬に乗った楠木正成像があり、勉三一行が見たものはこれに関係しそうです。しかし、大きな問題が残ります。楠木正成像が完成したのは明治33(1890)年です。しかも現在の楠木正成像は銅像です。勉三は一体何を見たのでしょうか?
・この疑問について、楠木正成像の作者である高村光雲の述懐から考えてみましょう。『幕末維新回顧談』(岩波文庫、1995、底本は『光雲回顧談』万里閣書房、1929)には、銅像を作る前に、原型として檜で木像を造ったことが書かれています。この木像は、上野公園内にあった東京美術学校で制作されたといいますから、勉三の「上野で木像を見た」という記述と合致します。木像の完成は明治26年3月16日。高村の述懐によれば、それ以前から、大きな像を造っていることが噂になっていたそうです。勉三一行はこうした評判を聞きつけて、完成間近の木像を東京美術学校に見学に行ったのでしょう。
・以上、二回に分けて勉三の浅草めぐりをみてきました。悠々自適に東京の見どころをめぐる記述からは、名家依田家の次男である勉三の境遇を大いに感じ取ることができます。  (ば)

 
 

皇居外苑にある楠木正成像
(wikipediaより)
2013.7.9 
 第十九講目
  勉三の浅草めぐり@ 

★明治25年の末から26年の年始にかけて、勉三は約6年ぶりに故郷に里帰りします。前回に引き続き、里帰りの途中の、東京における勉三のようすをみてみましょう。

○明治25年12月20日○
昧爽鈴木伯父と共に小石川を出で本町辺より馬車に乗り泉健に至り、家兄に逢ひ共に同署を出で三人にて浅草公園に至り書画、花卉を観、蕎麦を食しパノラマを見る。凌雲閣に上り上野に至り楠公馬上の木造を見る。三人小石川に帰り、伯父の家に泊す。
依田勉三「備忘 七」(当館所蔵)、明治25年12月20日条より引用

【現代語訳】
朝早く、鈴木伯父と共に小石川の宅を出発。本町辺りから馬車に乗って、旅館の泉健に到着。そこで兄の佐二平と合流し、同所から三人で浅草公園に行った。公園では書画や草花を見た。その後そばを食べて、パノラマを見た。また凌雲閣に上った。次に上野に行って、楠木正成馬上像(木造)を見た。三人で小石川に帰り、伯父の家に宿泊した。

【解説】
・勉三は母方の伯父にあたる写真家鈴木真一(初代)の宅に泊まっていました。そこから兄佐二平を連れて、三人で浅草にくり出します。
・まずは「浅草公園」に到着した三人。「浅草公園」は現在の浅草寺や仲見世通り界隈を指し、近くには演劇場も立ち並ぶ歓楽街として知られていました。
・次に三人は「パノラマ」を見学。「パノラマ」とは、円筒形の施設に一続きの図画を配置し、これを中央から眺める装置です。観客は入場料を払って見学する仕組みで、当時大変な人気を誇りました。浅草にあった施設は「日本パノラマ館」という名前で、明治23(1890)年5月に開館し、アメリカ南北戦争の図画をサンフランシスコから輸入し展示したそうです。
・浅草公園は明治17(1884)年から歓楽街が形成され、「日本パノラマ館」は明治23年開館です。つまり一行は、勉三が明治16(1883)年に十勝開拓を始めた以降にできた、東京の最新レジャー施設を満喫しているのです。
・次回はこの日記の後半部分、「凌雲閣」と「楠公像」について解説します。 
(ば)
 


(東京名勝)
浅草公園十二階絵葉書
作者不明

 
2013.6.18 
 第十八講目
  勉三、衆議院を見学する 

★十勝の開拓者として知られる依田勉三ですが、もともとは静岡県の出身。今回は勉三の帰省中の出来事をみてみましょう。

○明治25年12月17日○
十七日陰。余味爽起き、本港町秋田太郎兵衛氏に往き談話し、昼食を喫し十一時三十分衆議院に至り秋田氏と共に江原素六氏を待つ。遂に面会して傍聴券を得ず。重て田中鳥雄氏に面会し傍聴券を得て余独傍聴し秋田氏去る。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治25年12月17日条より引用


【現代語訳】
十七日。私は朝早く起き、本港町秋田太郎兵衛氏の家に行き談話し、昼食を食べ、十一時三十分に衆議院に至り、秋田氏とともに江原素六氏を待った。遂に面会したが、傍聴券は得られなかった。重ねて田中鳥雄氏に面会し傍聴券を得た。私だけが衆議院を傍聴して、秋田氏は帰った。

【解説】
・明治25年の年末に、勉三は伊豆に里帰りをします。途中東京に寄って、沢山の知り合いに面会しています。秋田太郎兵衛はそのうちの一人で、東京在住の木炭商です。
・在京中、勉三は衆議院を傍聴しようとしました。日本に議会が開設されたのが明治23年。出来たばかりの議会というものに興味を持ったのでしょう。
・当時、衆議院の傍聴のためには議員からの紹介が必要でした。そこで勉三は、江原素六と田中鳥雄という代議士にこれを依頼します。この二人と勉三とはどのような関係だったのでしょうか。勉三の兄佐二平は、第一回衆議院議員選挙に静岡7区から当選しています。次いで明治25年2月15日に行われた第二回総選挙では同じく静岡7区から出馬しますが、落選します。その時に当選した二人が江原と田中だったのです。
・落選した兄の対立候補に傍聴券をもらいに行くのは、現代の感覚からすると不思議に思えます。しかし、江原も田中も、佐二平と同じく静岡県における教育や産業振興に尽力した人物です。彼らには同郷のつながりがあったために傍聴の依頼が可能だったと考えられます。
・このあと勉三は伊豆へ帰って、のんびりとした正月をすごしました。  (ば)


 


勉三の兄 佐二平

 
2013.5.31 
 第十七講目
  勉三、新聞を読む 

★開拓の最前線に立つ勉三ですが、世情を知るために新聞を読むことも欠かしませんでした。今回は、そうした姿を紹介します。 

○明治25年1月8日○
八日前雪、後晴。余前認書。後読新聞。昨年十二月廿五日衆議院解散を命せられると云。余書を認めて家兄に送る。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治25年1月8日条より引用

八日午前雪、午後晴れ。私は午前中手紙をしたためた。午後は新聞を読んだ。昨年十二月二十五日に衆議院が解散となったという。私は手紙をしたためて、兄佐二平に送った。

【解説】
・この時期、勉三は大樹の生花苗牧場で開拓をしています。日記には、この記事の他にも、勉三が生花苗牧場において新聞を読んだことがたびたび書かれています。新聞を読んだ記録は毎日あるわけではないですから、開拓地では何日おきにしか新聞が調達できなかったと推測されます。

・普段、勉三は「新聞を読んだ」程度しか書かないのですが、この記事は新聞の内容にまで記録が及んでおり珍しい例と言えます。加えてニュースの日付までわかるものです。すなわち、十二月二十五日のニュースを、大樹生花苗では十四日遅れて一月八日に得ていたことがわかります。

・勉三はなぜこの衆議院解散のニュースに注目したのでしょうか。実はこのとき、勉三の兄の佐二平は衆議院議員を務めていました。勉三は、衆議院が解散し、兄佐二平が議員ではなくなったことを新聞報道で知ったというわけです。勉三が
佐二平に手紙を書いたのはこのためでしょう。

・このように短い記録から色々なことがわかる箇所ですが、疑問も多く残ります。勉三はどんな新聞を読んでいたのでしょうか?新聞はどうやって手に入れたのでしょうか?これらの「謎」は今後に残された課題です。  (ば)




明治期の新聞
「十勝新聞」明治37年4月15日

 
2013.5.15 
 第十六講目
  勉三、仔山羊をあたためる 

★勉三の日記を読むと、開拓地における日々の姿をうかがい知ることができます。今回は勉三の行った、地味だけれども重要な仕事を紹介します。

○明治25年1月20日○
余昨夜十二時山羊二仔を生む。牝、牡なり。夫より起きて山羊の児を爐辺に暖ため夜を徹す。六時家人起く。故に羊児を家人に命じ臥す。九時半起く。山羊の居所を作り穴を掘る。後二時に至る。夫より薪山出し。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治25年1月20日条より引用
 

【書き下し文】
昨晩十二時に山羊がオス、メス二頭の仔を産んだ。それから私は起きて、仔山羊を炉端で温めて夜を徹した。六時に家の人が起きてきたので、子山羊を任せて自分は寝ることにした。九時半に起きて、山羊のすみかを作るために穴を掘った。午後二時になった。それから薪を山から採ってきた。


【解説】
・真冬の1月20日深夜に、仔山羊が産まれました。仔山羊がこごえないように、勉三は夜を徹して炉端で温めることにしました。
・朝になり家の人が起きだすと、彼らに任せて勉三は就寝します。三時間半ほど寝て、山羊の居所作りなど、日々の仕事を代わりなく行います。
・勉三は晩成社のリーダーとして人々の先頭に立ち開拓を進めます。その一方で、日記には今回のような目立たぬ仕事も行ったことが記されています。このように日記からは、勉三の様々な姿を見ることができます。  (ば)


 
2013.4.29 
 第十五講目
  勉三日記「備忘」の秘密A 

★前回に引き続き『備忘』第7巻に注目してみましょう。前回は表紙に注目し、土屋準次の判について見ました。今回は表紙の内部から発見した史料についてのお話です。

依田勉三筆『備忘』第七巻(当館所蔵)の見返(表紙の裏)
   

 7巻表紙の裏には紙が1枚貼られており、ポケットのようになっています。その中に、鉄道の割引票が2枚(往復分)入っていました。勉三が挟み入れたものでしょう。

 割引票の表には「明治二十八年 官設鉄道乗車割引票 平安遷都紀念祭協賛会」とあります。裏面には「鉄道局ハ明治二十八年京都ニ於テ挙行スル/桓武天皇平安遷都千百年紀念祭協賛会ノ事業ヲ賛成シ本票ノ発行ヲ承諾セラレタリ」とあります。
 
 794年の平安京遷都から1100年が経過した明治28(1895)年に、遷都を記念する祭典が行われました。割引票にある「平安遷都紀念祭協賛会」が発足し、全国の名望家に寄付を募るなどして式典を準備、実行しました。

 『備忘』7巻を読むと、明治28年1月11日に函館において「郵便局ニ至リ為替ヲ出ス。平安遷都式寄附金四円」とあり、また同年3月23日には広尾・当縁二郡戸長役場から「平安遷都紀念祭参拝章ヲ受取ル」とあります。このように、勉三も平安遷都紀念祭に寄附をした一人でした。日記の表紙内部に挟まれていた割引票は、この寄附への報奨として付与されたものだったのです。 (ば)
 
 
 

勉三の日記から見つかった
「官設鉄道乗車割引票」



「割引票」の裏面

2013.4.14 
 第十四講目
  勉三日記「備忘」の秘密@ 

★勉三の日記『備忘』第七巻の表紙に不思議な判が押してあります。この判を手がかりに、勉三がどのように日記帳を作成したか考えてみましょう。


依田勉三筆『備忘』第七巻(当館所蔵)の表紙

・『備忘』第七巻の表紙です。判が押してあるのが見えます。判には「蚕種製造人/伊豆国那賀郡/那賀村/土屋準次」とあります。また、養蚕に関わる検査証が貼られており、そこには検査印が施されています。
・土屋準次は勉三のいとこで、勉三が幼いころ学んだ土屋三餘の養子になった人物です。準次は農業に関して幅広く事業を行い、その一環として養蚕業にも携わりました。印にある「蚕種」とはカイコの卵のことで、準次はこれを製造し、農家などに販売する立場にありました。
・勉三の日記に準次の判が押されているのは何故でしょうか。これを考えるヒントは題簽(だいせん:日記の表題などが書かれた縦長の紙)と検査証にあります。題簽と検査証は、わずかですが重なっている部分があります。よく見ると、検査証の上に題簽が貼ってあることがわかります。ここから、勉三は準次が使用した養蚕に関する包紙を再利用して題簽を貼り、日記の表紙にしたと考えられます。つまり表紙になった時点で、すでに準次の判は押されていたというわけです。
・実際に表紙を手で触ってみると、程よい硬さであることに気づきます。勉三もこの紙が表紙に適していると考え、手作りの日記帳を作成したのでしょう。第六巻の終わりから第七巻の冒頭にかけて、ちょうど勉三が伊豆に帰省したことが書かれています。勉三は故郷で表紙にふさわしい紙を見つけて新しい日記帳を作り、北海道へ持ち帰ったと推測されます。  
(ば) 
   準次の判の拡大
 
  題簽と検査証の重なる部分
わずかに題簽が検査証の上から貼られている


2013.3.19 
 第十三講目
  「福寿草咲く」 

★だんだんと春が近づいてきました。開拓に精を出す勉三たちは、この時期どのような生活をしていたのでしょうか。春が近づく明治24(1891)年3月の晩成社牧場のようすを見てみましょう。

 ○明治24年3月12日○
十二日陰。余会計。(中略)忠、万牛飼。(中略)朝六号牛牝犢を生む。赤毛なり。本年第八也。此日福寿草の開発を見ると云ふ。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治24年3月12日条より引用 

【現代語訳】
十二日くもり。私(勉三)は会計。忠兵衛、万三郎は牛飼。朝、六号牛がメスの子牛を出産した。赤毛である。今年八頭目の子牛。この日「福寿草の開花しているのを見つけた」と社員が言っていた。

【解説】
・晩成社牧場では2月から3月にかけて牛の出産シーズンを迎えました。この明治24年は、最終的に20頭以上の子牛が産まれます。勉三自身も難産の牛を手助けしたり、産まれた子牛の特徴を記して登録するなど、慌ただしく働いています。
・晩成社で働いている人のなかに、福寿草が咲いているのを発見した人がいました。牛飼いのために牧場に出た時に見つけたのでしょうか。家で会計業務をしていた勉三はこれを聞き、日記に書き残しました。短い記述ですが、晩成社で働く人も、勉三も、福寿草の開花を気に掛けていたことがわかる史料です。
 


 
2013.3.6 
 第十二講目
 「マルセイバタ」はどこに売った? 

★「マルセイバタ」は晩成社が作ったバターの商標です。バターのラベルは、現在お菓子の包装として復刻されており、よく知られたデザインと言えるでしょう。それでは、十勝で作られた「マルセイバタ」はどのような場所で売られていたのでしょうか?

 
         「広屋商店のチラシ」(明治40年代?) 
森和夫氏寄贈 晩成社関係史料

【解説】
 この史料は、現在の上野駅の近くにあった広屋商店のチラシです。当館に寄贈された、明治40年代の晩成社バター缶・牛肉缶販売に関する書類に挟まっていたものです。表にも裏にも、缶詰の重さを計算した筆書きのメモが見えます。メモを書いたのは、依田勉三の弟、善吾と考えられます。善吾は東京で「マルセイバタ」の販売に携わった人物です。
 善吾にとってはチラシに書いたメモ書きが重要だったのでしょうが、私たちにとってはこのチラシの内容こそが、晩成社のバターの販売先を知る手掛かりになります。
 それでは、広屋商店の販売品目を見てみましょう。
 @各種缶詰(魚類、鳥獣肉、野菜、果物、お菓子など)
 A海苔、佃煮
 B調味料(味噌、ソース、バター、カレー粉、カラシ、みりん、醤油)
 Cソフトドリンク(紅茶、サイダー)
 Dアルコール飲料(ビール、ワイン、ウイスキー、ブランデー)
 このように、広屋商店は缶詰・瓶詰の食料品を手広く扱っていた商店のようです。そして、善吾のメモ書きで見えにくいのですが、チラシの下段右から2項目に「バタ」の字があり、バターの販売も行っています。

 晩成社が十勝で作ったバターは、遠く東京上野の商店に運ばれ、さまざまな缶や瓶に囲まれて店頭に並んでいたのでしょう。1枚のチラシから、そうした風景を思い浮かべることができます。(ば)

 

勉三から善吾への手紙(当館蔵)
十勝と東京の間で頻繁に連絡を取り合い、バターの販売を行っていました
 


「マルセイバタ」のラベル
(当館蔵)
2013.2.17 
 第十一講目
  「ふいご祭り」 

★開拓を進めるためには様々な農具や工具が必要です。勉三は、そうした道具を作るために、専門の鍛冶職人を雇っていました。

 ○明治23年8月10日○
十日(中略)後国友の吹子祭りに行き、馳走になる。(中略)四、政、国鍛工所に於て吹子祭りの割烹。沖前吹子作。(中略)此日鍛工所吹子成る。国友吹子祭を為す。余、毅、四、忠、政、国、菊、沖、清等飲酒す。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治23年8月10日条より引用 

【現代語訳】
 十日。午後に国友が開催するふいご祭りに赴き、ご馳走になった。四郎、政次、国友は鍛工所でふいご祭りの料理を作った。沖田はふいごの製作。
 この日、鍛工所のふいごが完成した。国友がふいご祭りを行った。私勉三を含め労働者9人で飲酒し、ふいごの完成を祝った。

【解説】
・ふいごとは、鍛冶の際に火力を高める送風機で、ふいご祭りは、鍛冶の守護神を祭るものです。ここでは、晩成社生花苗牧場にある鍛工所のふいごが完成したことを祝っています。この後、鋤や鍬などの農具が、この鍛工所で作られています。
・ふいご祭りを主催した国友という人物に注目してみましょう。国友は晩成社に臨時に雇われた鍛冶職人です。鍛冶や鍛冶道具の製作を専門にし、農業や土木工事といった開拓の仕事にはほとんど関わりません。ふいご祭りのしきたりを重んじる姿からも、鍛冶職人としての気質が伝わってきます。
 明治20年代前半の十勝には、すでに国友のような鍛冶屋や、家や橋をつくる大工など専門の職人が入地していました。彼らは自らの技能を頼りに、勉三ら開拓者を取り引き相手に活動していたようです。
(ば)


   「鍬(当館所蔵)
晩成社は、金属加工の設備を整え、鍬などの農具を自ら製作していました。
 
2013.2.1 
 第十講目
 「勉三、山中で道に迷う!」 

★前回に井戸で呼吸困難になった話に引き続き、勉三が危険な目にあった場面を紹介します。

○明治24年3月27日○
廿七日。(中略)山を越え当縁川君塚氏普請所に至らんとす。日暮て露宿す。鍋なし。炊く能はず。米を噛て眠る。

廿八日。(中略)余ホリカヤニ山中に泊し、前二時頃より陰霧雨折々あり。三時半頃より出発し、道を誤り一周して凡そ一里半にして出発の地に至る。夜明たり。夫より又出発し、山を上下する。屡々昨日の疲れと昨夜来の食せざると〈塩鮭の一片と米五勺程食す〉にて甚だ疲労す。稍くにして君塚氏の普請場に至り、(中略)粥を頼み作らしめ粥を啜り、一睡し大に気力を養ひたり。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治24年3月27、28日条より引用 

【現代語訳】
二十七日。山を越えて当縁川近くの君塚氏のところへ行こうとしたが、日が暮れて野宿した。鍋がなくご飯を炊けず、米を噛んで眠った。
二十八日。私はホロカヤントー近くの山中に野宿した。午前二時頃から霧や雨に見舞われた。三時半頃出発した。道を間違えて、6q程歩いてもとの場所に戻ってきてしまった。野宿したことや食事をしなかったことで大変疲れた(塩鮭と米を食べたのみだ)。しばらくして君塚氏のところへ到着し、粥をいただき、一眠りしてようやく元気になった。

【解説】
 ・野宿をしたのは3月末のことです。さぞ寒かったことでしょう。
 ・塩鮭と米を携行食として持って行ったことがわかります。
  勉三は明治19年からオイカマナイで牧畜を開始します。今回のできごとも、オイカマナイに住んでいる時に起こったものです。明治20年代の十勝の海岸蔵沿いには、勉三の他にも開拓者が入植していました。遭難しかかった勉三にお粥を差し出した君塚もその一人です。また、湧洞沼西側には佐藤嘉兵衛という人物が勉三に先立って牧畜を行っていました。彼らは互いに連絡し合い、助け合いながら開拓を進めていたようです。     (ば)



「オイカマナエ当縁牧場之図」
(当館蔵)
 
2012.12.27 
 第九講目
 「勉三、井戸掘り危機一髪!」

★開拓にあたって様々なことに挑戦する依田勉三ですが、知らず知らずのうちに危険な作業を行ってしまうこともありました。勉三の井戸掘りの方法をみてみましょう。
○明治23年8月31日○
井掘。後一時半、(中略)遂に川井より鑿
(うが)ちたる鉄棒の穴を掘り当てたり。(中略)此前数日ランプ燃焼せず。依て、手ランプの鏡台を開き、紙或は布切れを用ひ、火を盛んに燃して穴中に入れば、火漸次小となり遂に平常の灯火の如し。又、呼吸促迫し、掘鑿(くっさく)に苦しみ、大いに倦困せり。此に至り始めて愁眉を開きたり。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治23年8月31日条より引用 

【現代語訳】
井戸の穴を掘っていたところ、一時半頃、川からつなげたパイプを掘り当てた。ここ数日、井戸の中のランプが燃えず明るくならなかったので、紙や布を入れて火を大きくして井戸の中に入った。火は、井戸の中で普段と同じくらいの勢いにまで小さくなった。呼吸がとても苦しく、非常に疲れた。だが、川と井戸がつながりやっと安心した。
【解説】
 勉三は川から地下にパイプを通して、家の前の井戸に水を引こうと考え、井戸掘りに挑戦しました。
 井戸の中はそもそも酸素が不足していたようで、ランプの火がうまく燃えません。そこで勉三は、火を大きくするために紙や布をランプに投入します。これは、言うまでもなく大変危険な行為です。さらなる酸素不足を招くばかりか、一酸化炭素中毒になり命を落とす可能性すらあったでしょう。史料から大いに苦しむ勉三の姿を看て取れます。
 さまざまな知識をあわせ持ち開拓に挑んだ勉三ですが、狭い空間で火を用いる危険性は、あまりわかっていなかったのかも知れません。   (ば) 
 


『勉三が掘った井戸』
大樹町晩成社史跡

 
2012.11.29 
 第八講目
 「開拓地での出産 そのA」

★前回、ハンと言う女性が、晩成社に働きにきてまもなく出産した記事をみました。今回は、ハンを雇う勉三が、ハンや子どもにどのように接したか見てみましょう。
○明治24年11月14日○
リク割烹、ハンの子クラ女の百一日の祝のしるし也、(中略)此日生酢煮染豆飯出来る
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治24年11月11日条より引用
 

【現代語訳】
リクが特別の料理をした。ハンの子どものクラの生後百一日のお祝いである。生酢煮染豆飯を作った。
【解説】
勉三の妻リクがハンの子クラ(名前はここで初めて判明します)に生後百一日のお祝いをする場面です。
・新生児が生後百日をむかえるころ、「お食い初め」「歯がため」の儀式を行う風習があります。子どもに祝い膳を用意し、食べる真似をさせる儀式で、子どもが食事に困らないよう祈るものでした。
・ハンは出産の一ヶ月前ほどに、夫と一緒に晩成社にやってきます。仕事を求めて流れ着いたのでしょう。夫婦だけでは「お食い初め」をする余裕などなかったに違いありません。夫婦を雇う勉三は、来てすぐに出産したハンを迷惑がらずに、お祝いをしてあげたのです。
・勉三とリクは唯一の子どもを故郷に残し移住しました。子どもはまもなく亡くなり、勉三夫妻はその死に立ち会えませんでした。開拓地で成長する子どもにお祝いをするのは、こうした点に理由があるのかも知れません。    (ば)

 

明治の子どもたち
(明治34年、帯広で撮影)

2012.11.10 
 第七講目
 「開拓地での出産 その@」

★晩成社で働く女性の中には、開拓の最前線で出産を迎える人もいました。

○明治24年8月4日○
ハン朝より産気あり。前十時頃分娩。女子を産む。後三時胞衣下る。母子健全なり。
依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治24年8月4日条より引用


【現代語訳】
晩成社のもとで働いているハンという人物が、朝産気づいた。午前10時頃、女の子を出産した。三時頃後産を終えた。母子ともに健康である。
【解説】
出産したハンさんは、夫の乙松さんと一緒に晩成社で働く人物で、7月13日に現在の大樹町にある晩成社牧場に到着しています。出産は8月4日ですから、ハンさんは身重の状態で旅をしてきたようです。
 晩成社で働く女性は、炊事や縫い物、洗濯を仕事にしていました。ハンさんは出産の前日まで縫い物をして働いています。当日は、夫に付き添われながら出産しました。そして、無事に出産を終えたハンさんは、この後二週間ほどで仕事に復帰します。
 妊娠中に旅をすることや開拓地での出産、そして子供を抱えながらの仕事は、今の暮らしから考えると、大変厳しいものであったといえるでしょう。
  (ば)

 

   晩成社移民団
移民の中には幼子を連れて渡道する人もいました
 2012.9.16 
 第六講目
「勉三、明治三陸地震を体験する」

★1896年6月15日に発生した明治三陸地震。津波によって、特に東北地方に大きな被害をもたらしました。依田勉三はその日、十勝川の河口の大津にいました。


○明治29年6月15日○
午後三時大津に至り郵便局にて為替を受取り(中略)木村に投宿す。(中略)有剋入浴喫飯髭剃す。此時地震あり。弱くして長し。夜八時頃海嘯あり。川水四尺余を上ぐ。大津村女子等衆々富岸長臼両山に逃れ露宿すと云う

 依田勉三「備忘 八」(当館所蔵)、明治29年6月15日条より引用

【現代語訳】
午後三時に大津に到着し、郵便局で為替を受け取った。(中略)大津の木村宅に投宿した。(中略)夕方風呂に入り食事をしたあとに、ひげを剃っていたところ、地震が起こった。地震は弱い揺れが長く続くものであった。夜八時頃津波があった。川の水は四尺(1m20pほど)上昇した。
大津村の女や子供は富岸・長臼両山に避難し、そこで一夜を明かしたと言う。
【解説】
依田勉三が明治三陸地震を体験した場面を、彼の日記『備忘』から抜粋しました。以下にポイントを見ていきましょう。
@弱い揺れが長く続いたという、この地震の特徴をしっかり書き記しています。
A三陸地方に多大な被害をもたらした津波(最大の遡上高は岩手県綾里湾の38.2m)は、勉三によれば、大津では1m20pほど。こののち『備忘』には被害状況などは特に記されていません。ですから、大津での地震被害は軽微だったことがうかがえます。
B女性や子供は高所に逃れ夜を明かしたとあります。夜の地震・津波ということで不安な一夜を過ごしたことでしょう。また、記載のない男性陣は高所に上がらず、大津村に残って家や財産を守ったのでしょうか。  (ば)
 
 

海岸に富岸(トンケシ)、内陸に長臼(オサウス)がみえます
「北海道十勝国全図」明治34年
(帯広市図書館蔵)
 2012.7.8 
 第五講目
   「勉三、おかゆに怒る!」

★依田勉三の自筆日記「備忘」第六巻から、彼の厳格な性格を表すエピソードを紹介します。


○明治23年5月3日○
 余は不快の為めヨコに命じて粥を作らしむ。少時ありて粥成るを報ず。但し「味噌を入れたり」と。余叱して云う「味噌を入れるは粥にあらず」。余の命に違へるを噴
(ママ)む。依て猶台所に行かず。
 依田勉三「備忘 六」(当館所蔵)、明治23年5月3日条より引用

【訳出】
私(勉三)は体調不良であり、雇人のヨコに命じておかゆを作らせた。しばらくして「おかゆが出来上がった」とヨコが報告してきた。しかし、おかゆに味噌を入れたと言う。私は怒って「味噌を入れたものはおかゆではない」とヨコを叱り、私の指示と違うことをしたことを責めた。こういうことがあったため、私は台所に行かなかった。
【解説】
体調不良の時に頼んだおかゆに味噌が入っていたことを、勉三が怒る場面です。おかゆを作った雇人のヨコさんは、きっと勉三の体調を気遣って味噌を入れたのではないでしょうか。しかし結局、勉三は体調が悪いにも関わらず、おかゆを口にしませんでした。文面から、勉三の厳格な姿勢が伝わって来るようです。  (ば)
 
 
依田勉三「備忘」

開拓期の食器
 2012.3.29 
 第四講目
   「十勝石を拾う」

★晩成社副社長の依田勉三の日記「備忘」から記事を抜粋しました。

○明治26年10月6日○
 此日 影山・(山久)兄二君、十勝石ヲ音更ヶ川太ニ拾フ。
 数十個ヲ拾ヒ来ル。
 
                   
 依田勉三「備忘」明治25〜29年(当館所蔵)より
                         ※(山久)は屋号です。


 十勝石とは、いわゆる黒曜石で、十勝三股(上士幌町)周辺が主な産地の一つです。そこから川によって運ばれるため、音更川などの河原でも採取できます。
 史料中の影山(増太郎)は、勉三と同郷(伊豆)で、晩成社の株主でした。影山は事業の視察で十勝を訪れた際に、音更川で十勝石を採取したようです。
 十勝石は、1910(明治43)年より、帯広の「坂本勝玉堂」が細工物を全国に売り出したことから、その名が広まったとされています。右の写真は、十勝監獄で作られた石細工です。(す)


依田勉三「備忘」
 

十勝石で作られたカエルの置物(当館所蔵)

 2012.3.15 
 第三講目
   「初夏、霜降りる」

★明治16(1883)年、帯広へ晩成社が開拓に入ると様々な自然災害に遭いました。その一つに、降霜があります。明治18年、初夏にも関わらず霜が降り、農作物に被害が出ました。

○明治18年6月25日○

 二十五日 霜降ル。小豆南瓜等ノ軟葉凋ム。扁豆ノ凋ミテ枯ルゝモノアリ。
 
                
 「北海道晩成社第四回報告書」明治18年(当館所蔵)より

 
今回は、二講目に引き続き、晩成社の営業報告書から記事を抜粋しました。降霜は、最低気温2〜4℃程度で発生し、新芽が枯れるなど農作物へ被害を及ぼします。史料によると、明治18年6月に晩成社が経験した降霜では、小豆やかぼちゃの葉がしぼみ、扁豆(レンズマメ)に至っては、枯れてしまうものもあったようです。別の史料によると、それを受けて晩成社は、種を蒔く時期をずらすなどの工夫をしました。
(す)


「第四回報告書」
 

晩成社農場(明治20年頃)
2012.2.2 
 第二講目
   「イオマンテを観る」

★今回は。明治16(1883)年、晩成社三幹部の一人である鈴木銃太郎が社員一行到着前、帯広でひと冬を過ごした際に観た、アイヌの人々による熊送り儀礼(イオマンテ)の様子を書き記した部分を紹介します。

○明治16年1月21日○
 二十一日 晴 当村ノ土人トレツノ家ニ熊送リヲ観ル。
 (土人熊児ヲ飼ヒ、一月ノ頃ニ至リ、之ヲ殺シテ、
  酒食ヲ以テ祭ル。之ヲ熊送リト云)。

                 「北海道晩成社第二回報告書」明治16年(当館所蔵)より


 熊送り(イオマンテ)とは、アイヌの人たちが晩冬、クマ猟に出かけて親グマと一緒にいる子グマをコタン(村)へ連れて帰り、一年ほど育てて、その霊に多くの御土産を持たせて親のいる神の国(カムイモシ)へ送るという儀礼です。
 史料中に記載されているトレツという人物はアイヌで、和名を武田源五郎といって幕別で出生し、明治初年に帯広付近の惣乙名(村長)を務め、鈴木銃太郎ら晩成社社員とも親しく交流していました。銃太郎は、トレツに招かれてイオマンテを観たようです。(す)


「第二回報告書」


「蝦夷島奇観」より
(当館所蔵)
2011.12.25 
 第一講目
   「バッタ襲来!!!」

★今回紹介するのは、明治16(1883)年、帯広に入植した晩成社が経験した「トノサマバッタ」の大発生のようすです。


○明治16年8月4日○

 四日 土 曇 蝗虫至ル。其数幾百万ヲ知ラス。
 天為メニ暗、地為メニ赤シ。草及畑物ヲ食シセリ。

         渡辺勝・カネ「日記」明治16年〜明治18年(当館所蔵、収蔵番号1-1-4)より


 これは、晩成社の三幹部の一人である渡辺勝が、その妻カネと共に日々の生活を綴った「日記」から抜粋したものです。内容を見ると、蝗虫(トノサマバッタ)の来襲によって、空は暗く地面は赤くなり、草や畑物(作物)を食べ尽くしたとあります。
 バッタは、明治12年から18年にかけて十勝地方に端を発し、石狩や胆振地方などにも襲来しました。当初、人々は成す術もありませんでしたが、産卵地を突き止め、その掘り起こしに着手したことによって撲滅することができました。
 当時を偲ばせるものに、各地に卵塊や捕獲した幼虫・成虫を積み上げ、土を盛ったバッタ塚(右写真)があります。(す)


渡辺勝・カネ「日記」

本別町チエトイの石碑