帯広百年記念館のページ
寺子屋・百年記念館
〜史料から歴史をひも解きます〜
担当:菅原慶郎(帯広百年記念館・学芸調査員)
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 2012.3.29 
 第四講目
   「十勝石を拾う」

★晩成社副社長の依田勉三の日記「備忘」から記事を抜粋しました。

○明治26年10月6日○
 此日 影山・(山久)兄二君、十勝石ヲ音更ヶ川太ニ拾フ。
 数十個ヲ拾ヒ来ル。
 
                   
 依田勉三「備忘」明治25〜29年(当館所蔵)より
                         ※(山久)は屋号です。


 十勝石とは、いわゆる黒曜石で、十勝三股(上士幌町)周辺が主な産地の一つです。そこから川によって運ばれるため、音更川などの河原でも採取できます。
 史料中の影山(増太郎)は、勉三と同郷(伊豆)で、晩成社の株主でした。影山は事業の視察で十勝を訪れた際に、音更川で十勝石を採取したようです。
 十勝石は、1910(明治43)年より、帯広の「坂本勝宝堂」が細工物を全国に売り出したことから、その名が広まったとされています。右の写真は、十勝監獄で作られた石細工です。


依田勉三「備忘」
 

十勝石で作られたカエルの置物(当館所蔵)

 2012.3.15 
 第三講目
   「初夏、霜降りる」

★明治16(1883)年、帯広へ晩成社が開拓に入ると様々な自然災害に遭いました。その一つに、降霜があります。明治18年、初夏にも関わらず霜が降り、農作物に被害が出ました。

○明治18年6月25日○

 二十五日 霜降ル。小豆南瓜等ノ軟葉凋ム。扁豆ノ凋ミテ枯ルゝモノアリ。
 
                
 「北海道晩成社第四回報告書」明治18年(当館所蔵)より

 
今回は、二講目に引き続き、晩成社の営業報告書から記事を抜粋しました。降霜は、最低気温2〜4℃程度で発生し、新芽が枯れるなど農作物へ被害を及ぼします。史料によると、明治18年6月に晩成社が経験した降霜では、小豆やかぼちゃの葉がしぼみ、扁豆(レンズマメ)に至っては、枯れてしまうものもあったようです。別の史料によると、それを受けて晩成社は、種を蒔く時期をずらすなどの工夫をしました。



「第四回報告書」
 

晩成社農場(明治20年頃)
2012.2.2 
 第二講目
   「イオマンテを観る」

★今回は。明治16(1883)年、晩成社三幹部の一人である鈴木銃太郎が社員一行到着前、帯広でひと冬を過ごした際に観た、アイヌの人々による熊送り儀礼(イオマンテ)の様子を書き記した部分を紹介します。

○明治16年1月21日○
 二十一日 晴 当村ノ土人トレツノ家ニ熊送リヲ観ル。
 (土人熊児ヲ飼ヒ、一月ノ頃ニ至リ、之ヲ殺シテ、
  酒食ヲ以テ祭ル。之ヲ熊送リト云)。

                 「北海道晩成社第二回報告書」明治16年(当館所蔵)より


 熊送り(イオマンテ)とは、アイヌの人たちが晩冬、クマ猟に出かけて親グマと一緒にいる子グマをコタン(村)へ連れて帰り、一年ほど育てて、その霊に多くの御土産を持たせて親のいる神の国(カムイモシ)へ送るという儀礼です。
 史料中に記載されているトレツという人物はアイヌで、和名を武田源五郎といって幕別で出生し、明治初年に帯広付近の惣乙名(村長)を務め、鈴木銃太郎ら晩成社社員とも親しく交流していました。銃太郎は、トレツに招かれてイオマンテを観たようです。


「第二回報告書」


「蝦夷島奇観」より
(当館所蔵)
2011.12.25 
 第一講目
   「バッタ襲来!!!」

★今回紹介するのは、明治16(1883)年、帯広に入植した晩成社が経験した「トノサマバッタ」の大発生のようすです。


○明治16年8月4日○

 四日 土 曇 蝗虫至ル。其数幾百万ヲ知ラス。
 天為メニ暗、地為メニ赤シ。草及畑物ヲ食シセリ。

         渡辺勝・カネ「日記」明治16年〜明治18年(当館所蔵、収蔵番号1-1-4)より


 これは、晩成社の三幹部の一人である渡辺勝が、その妻カネと共に日々の生活を綴った「日記」から抜粋したものです。内容を見ると、蝗虫(トノサマバッタ)の来襲によって、空は暗く地面は赤くなり、草や畑物(作物)を食べ尽くしたとあります。
 バッタは、明治12年から18年にかけて十勝地方に端を発し、石狩や胆振地方などにも襲来しました。当初、人々は成す術もありませんでしたが、産卵地を突き止め、その掘り起こしに着手したことによって撲滅することができました。
 当時を偲ばせるものに、各地に卵塊や捕獲した幼虫・成虫を積み上げ、土を盛ったバッタ塚(右写真)があります。


渡辺勝・カネ「日記」

本別町チエトイの石碑