上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1395回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年12月8日(水)
【話 題】 子どもは遊びの大天才 [18]
− チャンバラごっこ −


〜チャンバラごっこ〜

「チャンバラ」という語は、時代劇映画などの剣戟シーンを真似る子ども達の遊びを
指すようになりました。この時代の子ども達の多くは刀を模した木切れや木刀、新聞紙
を丸めたものなどを手に持ち打ち合って楽しみました。

女の子達が「おままごと」をする中、男の子が夢中になった「チャンバラごっこ」。
当時は時代劇の俳優になりきって楽しむ「ごっこ遊び」の延長でもありました。
1960年、時代劇映画が大流行した当時の日本では、男の子が最も熱狂する遊戯の一つ
だったそうです。

この遊びの名前の由来は、刀で斬り合う音、および様子を表す擬音が元になっており、
「七零七零八落八落(ちゃんちゃんばらばら)」を略した名前といわれています。

意味合いとしては、斬はチャンと読み「斬合う」の意味であり、重ね式表現に
した斬斬はチャンチャンと読みます。 四字熟語の「七零八落」の派生義には
「散らばる」の意味があるとされています。その重ね式表現である七零七零八落八落は、
一音節読みの訛り読みでチリヂリバラバラと読めます。
したがって、この熟語の一部である八落はバラと読め「散らばる」の意味があると
思われます。斬と八落とを合わせた斬八落はチャンバラと読め、直訳すると「斬合が散らばる」、
少しいい変えると「あちこちに散らばって斬合をする」の意味になっており、これがこの言葉の
語源と思われます。  

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 〜豆知識〜


〜チャンバラスターの登場〜

この頃にマキノ省三は1924年(大正13年)に東亜キネマと
合併して翌1925年(大正14年)に聯合映画芸術家協会を設立し、そし
て同年6月にマキノ・プロダクションを設立しました。ここでマキノは、阪東妻三郎、
市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介らのスターを生み出しています。

彼らは時代劇に「剣戟」の見せ場を持ち込んだ「チャンバラスター」であり、以後「チャンバラ映画」
は時代劇の主流を占めるようになりました。またマキノが去った後の日活に新劇の
小山内薫の門下でもあった伊藤大輔監督と第二新国劇から日活に来た
大河内傅次郎主演のコンビが登場し、このコンビで『幕末剣史 長恨』
『忠次旅日記』『下郎』『新版大岡政談』と次々と傑作を生み出し、そして『丹下左膳』
シリーズが始まりヒットしています。

この伊藤大輔監督は後に市川右太衛門主演で『一殺多生剣』、
月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』を製作しており、それはおよそ「松之助映画」とは違った
「反逆的ヒーロー」の映画でした。

やがて1925年(大正14年)に設立された阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)
を筆頭に、彼ら「チャンバラスター」は次々と独立してスタープロダクションを
設立し、チャンバラのスター映画を量産しました。

そして大正時代が終わろうとしていた1926年(大正15年)9月、日本映画最初の
時代劇スター尾上松之助が世を去りました。寿々喜多呂九平と阪東妻三郎、伊藤大輔と
大河内傅次郎のコンビが台頭し、松之助自身が自分のこれまでの映画が時代に
すでに適応できていないことを感じ取っていたといいます。

全盛期であった1917年(大正6年)には月9本、3日に1本の割合で量産されて
「低級な観客相手の粗製濫造品」「何等奥行も巾もない駄作ものばかり」と批評されても
映画を作り続けた松之助ですが、田中純一郎はその著「日本映画発達史」の
中で「他の映画が舞台劇的で動作が少なく科白による内容発展に一切を委ねて
いたのに対して、松之助自身の軽快な動作、映画的本質の一つとして掴んだ
マキノ省三の演出方針を基盤として‥‥退屈感はなく視覚を満足させる
だけの動きと変化を持っていた」として「他の映画よりは映画的本質に適っていた」
と評価していますが、当時の子ども達の心をつかむには十分すぎる作品だったのでしょう。


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〜チャンバラごっこ〜





(画:鎌田博文氏)



(画:菅野孝雄氏)

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