上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1344回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年2月5日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[208]
     −浦幌町立養老小学校−
      (1914〜1982)

 ≪あゆみ≫
■明治44年 10月11日、統太(とうふと)分教場として開校。
■明治45年 4月10日、村名を生剛(せいごう)村から「浦幌村」に改称。
■大正03年 6月9日、浦幌村立養老尋常小学校と改称。
■昭和16年 4月1日、浦幌村立養老国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、浦幌村立養老小学校と改称。(学制改革)
■昭和25年 5月5日、制定。(図案:川口宣昭氏=養老小第3回卒業生)
■昭和29年 4月10日、浦幌町立養老小学校と改称。(町制施行)
■昭和51年 6月1日、校歌制定。
■昭和57年 3月31日、閉校。4月1日、新養老小学校へ統合。

 地名の「養老」は、この地に岐阜県の衆議院議員大野亀三郎氏らが開いた岐阜農場の事務所が置かれたことにある。当然、この農場で働く小作人も岐阜県人が多かった。その故郷には有名な養老の滝があった。だから、学び舎は「養老」小学校―実に分かりやすい。
 養老地域は、浦幌で最も早く開拓された地域でもある。浦幌町史によれば、明治44年10月11日に下浦幌六線に統太分教場を設置し、同じ月の25日、西三線南八十番地に移転している。児童数は19人だった。
 不思議に思うのは、次の説明である。「大正三年(1914)四月二十九日創立。同年六月九日、養老尋常小学校。」とあるのだが、ここでいう「創立」と、「統内分教場の開校」とは関連させないのか、ということだ。「分教場」というのであるから、帰属する「本教場」があるのだろうが、この帰属は現在調査中である。
 さて昭和51年制定の校歌だが、作詞は第16代校長の西沢寿雄先生。西沢校長は昭和50年から55年までの在職だ。作曲は、統内小学校(豊頃町・平成5年3月閉校)の阿部清志先生。養老小学校は、昭和57年に豊北小学校と統合し「新養老小学校」となる。
 ところで、この小学校の校歌は「養老小学校」の校歌に『新』と加筆して歌い継がれたのであった。それでは、元々の「養老小学校校歌」を表す資料はと言うと見つからないのである。

(文責:上野敏郎)
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浦幌町立養老小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



浦幌町立養老小学校 校章
(文字&画:鎌田博文氏)

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