上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1354回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年3月3日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[218]
     −浦幌町立幾千世小学校−
      (1911〜1997)

 ≪あゆみ≫
■明治44年 8月10日、下頃辺教育所所属幾千世特別教授場として開校。
■明治45年 4月10日、生剛(せいごう)村を浦幌村と改称。
■大正06年 4月1日、下頃辺尋常小学校所属幾千世特別教授場と改称。
■大正12年 12月12日、稲穂尋常小学校所属幾千世特別教授場と改称。
■大正13年 4月1日、浦幌村立幾千世尋常小学校と改称。
■昭和16年 4月1日、浦幌村立幾千世国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、浦幌村立幾千世小学校と改称。(学制改革)
■昭和29年 4月1日、浦幌町立幾千世小学校と改称(町制施行)
■昭和32年 9月1日、校歌制定。
■平成09年 3月31日、閉校。4月1日、浦幌小学校へ統合。

 幾千世は、アイヌ語の「ユクチシュ」からきている。意味は「鹿の家」または「鹿の住む険しい道路」。
 この地の開墾の始まりは、京都の林田成一氏が同郷の代議士の名義で申請を出し無償貸与を受けたことにある。平成9年3月31日に建立された閉校記念の碑にはこう記されている。
 「明治31年8月1日、林田成一氏が農地経営の企画のもとに86万300坪の土地を無償貸借の申請を出し、明治35年1月10日付けで許可され、16戸の入植者と共に林田農場を経営したのがこの地の創始である。」と。
 さすがに、この申請に政治家が関わっていたとは書いていないが、「浦幌村史50年沿革史」でこの事実を確かめることができる。血の滲むような開墾事始にこの程度の裏話はあっても不思議ではない。
 明治44年8月を創始とする幾千世特別教授場は児童数3人で始まるが、その1ヶ月後には14人に増えている。85年後の閉校時は7人。校章はあるが制定日は不明。校歌の作詞は第8代校長、長屋美夫先生。

(文責:上野敏郎)
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浦幌町立幾千世小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



浦幌町立幾千世小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。