上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1356回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年3月8日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[220]
     −浦幌町立新養老小学校−
      (1982〜2001)

 ≪あゆみ≫
■明治37年 7月1日、養老小学校の前身、第一浦幌尋常小学校開校。
■昭和57年 4月1日、新養老小学校として開校。
■平成13年 3月31日、閉校。4月1日、浦幌小学校へ統合。

 新養老小学校の歴史は養老小学校と豊北小学校の歴史を受け継ぐ。昭和57年3月両校が閉校、その4月に統合し新養老小学校が誕生する。校史的には、明治33年4月に当時の生剛村(現浦幌町)に設立された第一浦幌尋常小学校(後の吉野小学校=2005年閉校)から分離した養老小学校が前身となるとする。
 新養老小学校は、19年間の短い歴史を経て平成13年4月浦幌小学校へ統合した。閉校時の児童数は19人。数える卒業生は70人だ。
 解明できないのは「校歌」だ。平成12年度「新養老の教育」はこう記している。制定は昭和51年6月1日、補作は昭和57年4月。作詞は西沢寿雄氏(第16代養老小学校長)、作曲は阿部清志氏(豊頃町統内小学校教諭・平成5年閉校)、監修は有賀正助氏とある。新養老小学校の創立は先に述べたように昭和57年4月である。
 ここから推測できるのは、前身の養老小学校の校歌を元歌とし、詩のどこかの箇所を有賀氏が補作したのだろうとする考え方だ。校歌の最後は「新養老小学校」である。元歌は「養老小学校」だったが、それに『新』を加筆したのだろうか。ただ、これだけで監修とするにはどこかに腑に落ちないものが残るのだ。
 とすると、あくまで仮設であるが校歌の詩は四番まである。普通は三番までが多い。とすれば、四番の「光またたく北斗星 仰ぎて見れば 深き思いは 求道の教え 心そぎて 眉あげし 若き日 いと尊し 我校 我校 新養老校」、この部分を有賀氏が加筆し監修としたのだろうかとも思うのである。
 いずれにしても、養老小学校の校歌資料を探すことができず、勝手な推測をしてしまった。母校愛に燃える方々に不快な思いをさせたらお詫びする。

 校歌の二番は、「小鳥の諸声(もろこえ)野に徹(とお)り 牛は草食(ば)む緑なす野辺 陽炎(かげろう)燃えて 陽炎燃えて 面映(おもはゆ)む童等(わらべら)いや清(すが)し 我校 我校 新養老校」である。作詞は西沢寿雄氏、作曲は阿部清志氏、そして補作は有賀正助氏とある。作詞の西沢氏は閉校した養老小学校の第16代校長先生である。推測だが旧養老小学校の校歌に、有賀氏が「新」の一字を入れて新養老小学校の校歌は誕生したのではないかと思う。では、養老小学校の校歌はと問えば、それが見当たらないのである。残念!

(文責:上野敏郎)
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浦幌町立新養老小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



浦幌町立新養老小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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