上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1359回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年3月15日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[223]
     −浦幌町立上浦幌小学校−
      (1911〜2010)

 ≪あゆみ≫
■明治44年 10月1日、十勝郡生剛村第六浦幌尋常小学校として開校。
■明治45年 4月10日、生剛(せいごう)村から「浦幌村」へ改称。
■大正13年 2月23日、上浦幌尋常高等小学校と改称。
■昭和16年 4月1日、上浦幌国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、浦幌村立上浦幌小学校と改称。
■昭和29年 4月1日、浦幌町立上浦幌小学校と改称。(町制施行)
■昭和36年 10月1日、校歌制定。(開校50周年記念式典挙行)
■平成22年 3月31日、閉校。4月1日、上浦幌中央小学校へ統合。

 上浦幌地区は、浦幌の北部で本別町に隣接している。明治32年初めて十勝郡大津村の熊谷泰造氏が人跡未踏のこの地で獣医だった守屋晋氏を管理人にして牧場経営に乗り出す。明治37年にはこの牧場を分割して数人に売却する。
 このような経過を経て、更に様々な苦難を乗り越えて30戸の部落を形成したのは明治40年だった。 さて、学び舎だが、54人の児童数で尋常小学校が誕生したのは明治44年10月1日、場所は十勝郡生剛村大字生剛字上浦幌東三線二番地だった。15年後の大正15年にはその児童数も158人まで増えている。
 この地域は昼でも樹木が鬱蒼としていた。地面に太陽の光が届くことがなかった地域が、どのように変化していったかは児童数の推移から分かるのだ。人の力、とりわけ開墾に命を懸けた開拓者には唯々頭を下げるしかない。
 校歌の三番は「みんなが生きる明日のために 真理の道をきわめつつ 平和の願いひとみにもやし いしずえの上浦幌校」である。素晴らしい人生の設計図に見えるではないか。

(文責:上野敏郎)
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浦幌町立上浦幌小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



浦幌町立上浦幌小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。