『教育とは』(常葉論考 2003年6月)

 『ゆとり教育』と銘打ち、既に完全週休二日制になってからも久しい。円周率は、『π=3.14』から『π=3』となり、円は六角形へと変形した。日頃NEWSでは日本の学力低下を報じている。特に数学力の低下が叫ばれており、世界中から見た水準も、随分と下がってしまったようである。
 『ゆとり教育』の政策は悪かったのだろうか? 近頃随分と騒がれている。
 しかし、以前にも似たような騒ぎがあったような気がする。『学歴主義』がなんたらかんたら。
 どっちなのかと考えると、まあ要するに『過ぎたるは及ばざるが如し』と言うことなのだろうか。しかし、どうも良く分からん。

 さて、そもそも教育とは何か? 何故に国は『義務教育』なるものを定め、小学から中学まで、子供を学ばせるのだろうか? それは何の為になるのか?
 学生達(小学から高校まで)。試しに身近な大人に聞いて見なさい。

国語 Q1『北原白秋はいつの時代の人? 何をやっている人?』
    A1『明治18年生まれ。大正を経て、昭和17年没。 詩人』
    Q2『死者の奢りの作者は誰?』
    A2『大江健三郎』
理科 Q3『窒素の元素記号は?』
    A3『N』
    Q4『夕焼けは何故赤いの?』
    A4『太陽光の赤以外の波長が、大気中で障害物にぶつかり届かないから』
数学 Q5『円の面積の公式は?』
    A5『πr2乗』
    Q6『ピタゴラスの定理って何?』
    A6『別名、三平方の定理 aの2乗×bの2乗=cの2乗(a=3 b=4 c=5)
社会 Q7『平安京が始まった年は?』
    A7『794年』
    Q8『徳川家康は何代目の将軍?』
    A8『一代目』

 八問中四問答えられれば上々。八問全部答えられたら尊敬して良し。一問も答えられないのは流石に問題だろう。
 以上は比較的初歩的な問題である。がしかし・・・私の経験として、社会に出た後に、以上の知識が役に立った覚えは全く無い。一体どんな仕事に就くと、上のような知識を使うことになるのだろうか。

 教師陣なら上記の問題に答えられるのは分かる。教える立場なのだから知らなければ仕方がない。しかし、他の一般職に就いている大人達の大半が忘れているような知識を、何故学校で教えるのか? 何故学ぶのか?
 学生達は大いに疑問を持っているのではないのだろうか?

 結論から言おう。
 『学校で教えこまれる『知識』の70%は社会では役に立たない。しかし、学校での教育には全く当然の理由があり、意味がある。』

 要するに、学校で学ぶ『知識』は、学校で修得すべきものの中でも殆ど重要なものではないのだ。本当に修得すべきは、『勉強の仕方』『努力の仕方』『上手い方法論』なのである。
 学問に身を勤しむ年代を越え、社会人になっても、学ばなければいけないことは多数存在する。しかもその時には、教師は居ないしテキストもない。わざわざ勉強する時間を取ってもくれない。正に自分から学ばなければいけないのだ。

 学校で授業を行うとき、教師は黒板に字を書いていく。生徒はそれをノートに書き写すが、単に書き写したところで、本当に覚えられるのだろうか。自分に分かり易いように『工夫』して書き換えなければ大抵は使えない。教科書の内容で重要な部分と言うのはそれ程多くないが、それをさらっと読むだけで、その重要な部分を把握できるのだろうか。マークを付けるなりして始めて意識ができる。教師が黒板に書かず、口頭で述べる言葉も本当は無意味ではない。良く聞き、何が大切なのかを判断し、必要ならノートに書き取らなければ直ぐに記憶の彼方である。分からない事があったとしよう。それはそのまま分からないままで良いのだろうか。分かるまで考える。それでも分からなければ聞くしかない。
 学び方は、ただ生きているだけでは身に付かない。学び方は、頭で覚えたとしても忘れてしまう。それは、自分のスタイルとして身に付けなければいけないのだ。

 義務教育を終えて高校などに進学することになると、大体学力差において高校のランクが決まる。高いランクの高校などは、他の高校と比べてクラブ活動などが強かったりする。さてそれは何故か? 当然である。高いランクの高校へ行く学生は、それまでの義務教育で他の生徒より高度な学び方を修得している。高度な学び方を修得していれば、必然的に学力も上がるし、高いランクの高校へ行ける。そういった学び上手の学生が集まりクラブ活動を行うのだから、強くなるのは当然である。
 逆にそれほどランクの高くない高校は、クラブ活動においても余り冴えない。
 積極性が無い。学ぶ意欲が無い。致命的に学び方、頑張り方を知らない。

 学校で教える知識はパラメータである。自分がどれだけ学び方を修得したかを自分自身、又は外から見ても分かるようにするための指標(ステータス表)なのである。それはテストと言う形で確認できる。
 点数が悪い時『・・俺って頭悪い?』と思うかもしれないが、それは間違いだ。学び方が悪いのであって、決して君が馬鹿なのではない。君の努力が足りないのであって、脳の構造が悪いのではない。君が怠慢なのであって、学校の教え方が悪いのではない。点数が良い人を見て『あいつは頭が良いから』と思うかもしれないが、それは大間違だ。彼は、日々努力し、授業から上手な学び方を修得した結果、良い点数を得ることが出来たのだ。
 本当にやる気があって、努力している人間に成績が悪い人間は殆ど居ない。
 これは後々に響く。社会に出た後にも。
 学び方を修得できていない人間は、社会においても学ぶことができない。


 近年の教育制度は、教育の持つ本来の目的を喪失していると言っても過言ではない。これは学生のみならず、教える側即ち教師陣・学校自体が失念しているのである。勿論日本と言う社会全般がそうであるのだから、学問のレベルが世界水準で下がっていくのも当然である。
 何故学ぶのか? 何故、教育というものが存在するのかを、良く考えてみなければ行けない。中途半端な考えではいけない。『学校で教えられる知識の70%は無意味だ。だから学校で勉強するのも無意味だ』と言う単純過ぎる結論に至る人間は、まさに考える力を喪失している。
 義務教育9年間、その後高校へ進学して12年間。短大なり専門学校へ行って14年間。大学なら16年間。これだけの年数学問に勤しむのである。そこで学ぶものは、無意味な知識だけのはずが無い。各個人がその知識を無意味にしてしまうのであって、決して無意味なものを教えてはいないのだ。

 学問は、我々に将来への夢の提示をしてくれる。何かをしたいと思うには、何があるかを知らなければいけない。
 学問は、我々が夢見る将来を広き門としてくれる。将来への夢があっても、それを実現するに必要な知識・技術がなければいけない。
 学問は、我々が将来有利に生きていくための方法を与えてくれる。例え大人になっても、能力がなければ有利には生きられない。
 学生の時から『物事の学び方』『物事に向かう姿勢(努力)』『物事を上手く運ぶ方法論』を身に付けていないと、後の人生において正に『負け組』になってしまうのだ。
 運によって富みと地位を築く人間は確かにいる。しかしそれはごく少数で、大抵はそれまで努力をしてきたものが成功するのである。

 学問に勤しむ期間とは、即ち種まきの時期である。しっかりと弛みなく種を蒔けば、いずれ穂は実るだろう。しかし、種蒔きを怠れば、収穫はない。後に収穫の多い少ないで悩んだところでは最早遅い。収穫の多いものを妬むなかれ。自分の責任である。将来後悔したくなくば、種まきに勤しみたまえ。
 また教師は、今学生達にとって種まきの季節であることを教えなければならない。そしてそれが必ず実りを迎えること、そしてその実りは、種まきの時にどれだけ努力したかによって豊作であるか凶作であるかが分かれることも教えなければいけない。
 教育とは本来、この豊作を招くために存在する物なのだ。

 教育に『ゆとり』が有ろうが無かろうが、要はしっかりと教える態勢、学ぶ態勢がなっていれば、学力の低下など本当は有り得ない。

 学生諸君、学べる季節は少ない。己が色褪せぬうちに学びたまえ。

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